しかしながら「正しい」というのがミソで、私は「正しい歴史認識」などというのはありえないと思っている。純粋・客観的に判断できるような問題ではないからだ。だから、「正しい歴史認識」という言葉を双方が振りかざす限り、歩み寄りはないと思う。
大切にしなければならないのは、正しいか正しくないかの判定ではなくて、人間として、また国政を担う政治家として「配慮のある発言や行為であるか」ではないかと私は思う。
「自分の義を訴えさえすれば、世の中OKだ」と思っているような、政治家としての幼稚さが気にかかる。日本がなめられているとか、いないとか、そんな子どもじみた発言を、政治家が公の場でしないでほしい。もし個人的な発信をしたいなら、政治家を辞任して「一私人」になってからにして欲しい。政治家である限り、その発言や行動はすべて「国益」に直結するものだと、私は考えている。※プライベートな不倫でさえも。(^-^;)
もちろん、何が国益にかなうかと判定することも難しい。しかしながら、少なくとも国と国との交流で、過去の事例から判断して紛糾するだろうと推測できるような問題においても、政治家が個人的な義を優先しようとするのは国益に反するような行為ではないかと私は思う。
ところで、偉そうに書いている私の歴史認識はどんなものかと問われれば、恥ずかしい話だが、第二次世界大戦と戦後処理などの世界史や昭和史についてはほとんど知らない。興味がなかったわけではなく、その反対に勉強しなければ・・という思いはあったが、何となく避けたい気持ちもあって、今まで何のアクションも起こしてこなかった。
しかし、こう歴史認識が国際問題になってくると、いつまでも不勉強で無知なのはイケマセンなあ・・・と反省して、お手軽な戦争記録フィルム鑑賞から始めてみた。(^-^;)
某無料動画サイトで、「ナチス侵攻!/The Nazis Strike」、「ナチス怒涛の侵略」、「地上最大の作戦/True Glory」の3本の映画を観てみた。もちろん、戦勝国の側から自分たちの歴史認識に従って記録フィルムを編集したものだから、そこに描かれている歴史認識が正しいとは思っていない。当時の「戦争」の実態を知りたかったのだ。
人間の狂気・欲望・種々の兵器を開発しての殺戮を見ていると、人間ってオゾマシイ生き物だと悲しくなってしまう。人間は、有史以来、何度も何度も、戦争による破壊・殺人・レイプなどを繰り返してきたのだと思うと、人間という生き物に対して絶望的にもなる。
「地上最大の作戦/True Glory」のエンディングで
灰の中から立ち上がる者と手を結び平和を築くことが、我々に与えられた試練である。世界の再建に当たり、古き祈りを胸に刻んでほしい。
”神よ、我らに大いなる試練を与えし時、共に教えたまえ。始まりではなく、終わりまでのたゆまぬ継続にこそ、真の栄光が宿りしことを”
という字幕が出てきたが、核兵器と原発を手にしてしまった現代では、もし「次」が起これば、もう「次の世界の再建」などないのではないかと思う。
国際連盟が戦争阻止に機能しなかったが如く、国際連合も戦争阻止にはほとんど無力だ。「人類の叡智」も、「たった一人の悪魔のような狂気」の前には為す術もないだろう。
人類に未来はあるのだろうか、それとも教会が言うように、終末が近づいているのだろうか。
母も父介護という重荷から解放され、ずいぶんと元気になり、あやバスの定期券を使って30分もバスに乗り、大好きな買い物にウロウロと出かけるようになった。現金なもので、ふだんは杖をついて弱々しくしている母が買い物に出かけるときだけはシャンシャンとして、遠距離でもカートを引いて歩きまわるのだ。母曰く、「買い物へ行くと元気がもらえる」のだそうだ。(^-^;)
そんな母を小旅行に誘ってみたら、「あんたが一緒に行ってくれるんやったら、行ってみよかなあ・・・」とまんざらでもない様子で承諾したので、一昨日、丹後の網野町に一泊2日の予定で連れていってやった。
切符を買って予め母に郵送しておいて、綾部10時31分発の特急の自由席(4番車両)の入り口に立っているように連絡した。私は京都からその特急に乗って行き、綾部駅で母と合流する手はずだった。
予定通り綾部駅で母と合流し、特急で天橋立まで行き、北近畿タンゴ鉄道で網野駅まで行く。
さらにそこから、30分ほどバスに乗って、丹後あじわいの郷へ行った頃には、母は駅の階段の昇り降りで疲れ果てて、腰が痛いと言い出した。
そこで、早々に母の土産だけ買って、2時に敷地内にあるホテルに投宿した。
それから、延々母の話し相手になり、「あんた、ちょっと見て。これ、どうしたらええん?」と持ってきた様々な書類(^-^;)に目を通し、その処理方法を封筒の表に書いてやり、弟が母に送るように言っている保険証のコピーを取ってやったら、「あんたが送って」と言って、封筒や切手まで持って来ている。
夕食を食べ、温泉に入り、母は普段通り午後8時には睡眠薬を飲んで布団の中に入る。真っ暗でなければ眠れないと言うので、眠たくないけれど私も一緒に目をつぶる。
電気を消しても母が喋るので、「お母さん、睡眠薬を飲んだら薬が効き出すまでの30分間は静かにしてやんと薬が効かなくなるで~」と注意したが、「この薬を飲んだら必ず眠れる」と言う。
30分が過ぎて、母が何度も寝返りをうつ音が聞こえる。「ああ...やっぱり寝入る時期を逸してしまったんやなあ...」と母を案じながら、私は眠りについた。
夜中に母がトイレに起きる音を聞き、その後、母の寝息が聞こえたので安心していた。明け方、また母がトイレに起きる音がして、朝6時半に母に声をかけたら、母の様子が変。
ぼぉーっとして反応がない。「お母さん、どうしたん?」と聞くと、ゆるゆる立ち上ってふらふらとトイレに行き、「ゲーゲー」と吐瀉し始めた。
「昨日、食べ過ぎたんと違う?齢やのに、私と同じだけ全部たべたやろ?」と言うと、「私はここ数年、吐瀉したことはないから、食べ過ぎとは違う。昨夜、全然寝られへんかったからや。今朝方から耳鳴りとめまいと頭痛と吐き気がしていた。この症状は何年か前のメニエール氏病と同じ症状やと思うけど、高血圧で、もしかしたら脳梗塞でも起こしかけているのかもしれへんから、この近くで病院を探して、救急で診てもらいに行こ?」と言う。
「わかった、わかった、お母さん。ほな、もう旅行をキャンセルして、朝食食べたら、すぐ綾部へ帰って市立病院で診てもらお。診察券は持って来てるやろ?何時までに受け付けを済ませたら診てもらえるの?」と聞くと、「11時半まで」と言うので、「網野を9時半頃発、綾部に11時前着の特急があるから、それで帰って病院へ行こ?その特急は乗り換えなしで綾部まで行くから、階段の昇り降りは無いで~。また、ホテルから駅まではタクシーを頼んでおくから、大丈夫。」と言うと、それで納得したから、大急ぎで母と二人分の朝食を食べ、私のパン(洋食)と母のご飯(和食)で作ったおにぎりと梅干しを自室に持ち帰り、母に「少しでも食べておいた方が良いよ~」と進めると、全部たいらげた。(^-^;)
帰る道中、母はすっかり元気になり、「これやったら、病院へ行かんでも大丈夫かもしれんわ~」と言い出すが、「診てもらっておいた方がお母さんも安心やろ?私かって、心配で大阪へ帰られへんやんか」と説得して、綾部市立病院で診察を受ける。
結果は脳には何も異状はなく、急な暑さと睡眠不足から「体調不安の気持ちが強まり」、一過性の症状が出ただけ。
病院の食堂で遅い昼食を取り、家へ帰るバスに乗る母を見送って、大阪へ戻ってきた。
母は、父と旅行中にもよくこういうことがあったという。しんどくなって、旅先の病院で診てもらい、診察結果はいつもたいしたことなく、点滴を受けたり、一晩入院したこともあったそうだ。
生前父はよく母に「お前はいつも、もうしんどくなる、もうしんどくなる...と思いこんで待っている。気があかんから、そんな風になるんや!もっと気をしっかり持て!」と怒っていたが、確かに母は気持ちでそうなるところがある。いったん、体調不安の思いにとらわれると、そればかり思いつめて、結局、一過性の不調をきたすのだ。
父の介護の時も入院の時も、「私は身体が弱いから、お父さんの介護や病院見舞いをしてたら、お父さんより私の方が先に死んでしまう!」と何度悲鳴をあげたことか。だから、最終的に「私が引き受けるから、大丈夫」と母を説得したが、父は寂しかったことだろう。
父を田舎の病院へ転院させてやりたいと言った時も、「お父さんがこっちに帰ってきたら、私が死んでしまう。もうあんたが大阪で最期までお父さんを看てくれたら良いけど...」という言葉を聞いた時はショックだったが、母は他人の身になって考えることができない子どもと同じような人間だから、父のようにいちいち腹を立ててもむだだ。そう思って付き合うよりしかたがないと、父を転院させた後は母を励まし、励まし、何とか週2回、父の見舞いに行ってもらったものだった。
「あんたのおかげで最期までお父さんの病院へ通い続けてあげることができたから、お父さんを見送っても何の悔いも残っていない」と言ってくれたのが、せめてもの救い。
先程、母に電話したら、「楽しかったから、また旅行に連れて行って!」という元気な声。
はい、はい、わかりましたよ、お母さん。今度は秋に行きましょうね。それまで元気で田舎の家を守ってくださいね。