先生は22歳で牧師になられて45年間牧会の後、退任され、今春からうちの教会へ協力牧師として赴任して来られた。長年の牧会生活に裏打ちされた豊富な経験を踏まえて、平易な言葉で判り易く説教してくださって、私はとても嬉しかった。
説教者には、いろんなタイプがあると思う。
熱情的に語るタイプ。このタイプは分類すれば、どちらかというと「心余りて言葉足らず」タイプともいえるかもしれない。
冷静に分析的に語るタイプ。このタイプは、「言葉余りて、心足らず」タイプかもしれないなあ・・・。
もちろん、どのタイプが良くて、どのタイプが悪いという絶対的な基準が有るわけではない。人間だから、個人的な相性があるというだけの話だ。
私は、こと礼拝説教に関して言えば、「ノンクリスチャンの立場にまで下りて、平易な言葉でわかりやすく説き明かしてほしい」と常々願っている。
それではいつまでもミルクを飲む乳幼児のままで成長がないのかもしれない(ヘブル5:12-13)が、私は、礼拝説教を聴いていてもわからないことがいっぱいで、消化不良を起こし、未だ堅い食物が食べられないままの乳幼児のような気がするのだ。
だから、堅い食物なら噛み砕いてから与えて欲しいと願うのだ。
それが、私の甘えであることは充分わかっているが・・・。
なら、わからないことは質問すればいいではないかということになる。
もちろん、質問はしているが、その説明ですら、よく理解できないことが多いのだ。
私の頭が悪いのかもしれないが、それ以前に「質問の意味が噛みあわない」のが原因のような気がしている。
つまり、クリスチャンとして当然、受け入れていなければならないはずの「前提?共通認識?」が私には欠けているから、その「前提?共通認識?」の元で説明されても理解できないのではないだろうかと思うことがある。だから、クリスチャンに語るようにではなくて、ノンクリスチャンに語るように判り易い平易な言葉で語ってほしいと願っている。
私が判らないことの一つが「復活の意味」だった。だから、毎年イースターの前後は心が重かった。
何故、復活がなければ、私たちの信仰は空虚なものとなるのか(第一コリント15:17)、それが今ひとつよく理解できないのだ。私にはイエス様の十字架だけで充分救いが完成しているように思えるから、復活の意味がよく理解できないとのだと思う。
復活の事実が信じられないから・・・というのではない。なぜ、「十字架と復活の両方がなければ、救いは完成しない」というのかがよくわからないのだ。
つまり、私は、「救い」を考えた時、十字架の方が復活よりはるかに大きな意味をもっていると理解していたから、復活と十字架を同等に扱うことの意味が良く理解できないのだと思う。
そしたら、昨日の説教で「東は復活、西は十字架」という言葉があるとお聞きした。
それは、「救いの根拠をどこに強く置いているか」と言う場合、「東=東方教会は復活に、西=西方教会は十字架に」という言葉があるのだそうだ。
その言葉を聞いて、正直、ホッとした。
こういう言葉があること自体、やっぱり私のように迷う人がいる証拠だと思ったからだ。
旧約のイザヤ53章は、イエス様が生まれる300年前にすでにイエス様の十字架を預言した章だと聞く。その5節にはイエス様の十字架が預言されているが、「その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」を「神と和解した」という意味だと、以前牧師先生は語られた。
アダムとイヴァによって罪と死が人間に入ってきた。その罪のための贖いとして、イエスさまは十字架にかかって、神様に「父よ、彼らをお許しください」ととりなしてくださり、血を流して、私たちを贖ってくださった。
その事実だけで、十分ではないのだろうか?それだけで、イエス様を信じる者はイエス様の御名によって罪が許され、罪が許されると言うことは、死が取り除かれるということだから、永遠の命が与えられるということではないのだろうか・・・?と、私などは考えてしまうのだ。だから、どうして、十字架の他に、復活が必要十分条件のように欠くべからざる要件なのか、その辺がよくわからないのだ。
第一コリント15:23-26には「各自はそれぞれ順序に従わなければならない」として、一番最初に「キリスト・・・・最後の敵として滅ぼされるのが、死である」と書いてある。ということは、十字架では死は滅ぼされていないという意味なのだろうか?
永遠の命とは、一端死んで、よみがえることによって与えられるということなのだろうが、イエス様がよみがえられたという見える事実(復活)がなければ、永遠の命が与えられると言う約束が信じられないわけでもないと思うのだが・・・と思ってしまうのだ。信仰とはそういうものだと聞いてきたので、何故復活が強調されるのか、よくわからないのだ。
前に「救いは過程だ」と書かれている本を読んだが、そのことを教会の先輩信者さんに話すと、それは「救い」とは言わない、「聖化」というのだと諭されて、また混乱した。
このような者が、1年間の見習い期間(副会長)が明けて、いよいよ昨日の婦人会総会で「会長」デビューした(笑)。
去年、打診を受けたときは「書記」だった。「席上献金係」と「会計」は経験済みなので、もし今度役が回ってきたときは「書記」が妥当だろうなあ・・・と自分でも思っていたからOKしたら、何と、総会間際になって、「1年後会長の見習い副会長」に変更になって、慌てた。
私は下働きや裏方が自分の性格に合っているし、そういう仕事が好きだから、書記ならOKだったが、会長は断わりたかった。でも、イラチで猪突猛進の協調性に欠ける私を鍛えようと思って、神様がそう導かれたのだと信じるから、ゴチャゴチャ言わないでお引き受けしたが、やっぱり「霊的に貧しい者」ということが重く心にのしかかっていた。
だから、会長就任までに何とか霊的に少しでも成長したい・・・と願って、学びの意味で昨年このブログを始めたのだったが、最近脱落気味。
今、以前の御言葉の学びを読み返すと、よくもあんなこと、臆面もなく書けたものだと恥ずかしくてたまらない。だから、最近は書けなくなったが、今日、久しぶりにまたわけのわからない迷いごとを書いてしまった。(笑)
「幼子のように信じる」というのと「鵜呑みにする」というのは違うと思うのです。「鵜呑みにする」は「いわしの頭も信心から」に繋がるから、できるだけ「考えよう」と思うのですが、なかなか難しいです。
文句タラタラに見えるかもしれませんが、自分なりに考え続けたいと思っています。それが生きている証、クリスチャンとしての私の証かもと思えば、悩みもまた恵みと感謝です。