「人間には死に向かう性格と生に向かう性格がある」と書かれている。
生に向かう文学者の代表が谷崎潤一郎で、
死に向かう作家の典型が川端康成
と言った評論家がいたと述べられている。
そして、自分の中にあるのは昔から徹底して死に向かう意識だったと。
どうして、自分は死ぬことばかり思って暮らして来たのか、
第一の理由は持って生まれた性格だろう。
第二の理由は、5歳からカトリックの教育を受けたからだと分析されている。
私自身は幼少時にそのような教育は受けなかったので、
カトリック、ひいてはキリスト教の影響云々はよくわからない。
しかし、持って生まれた性格と言われれば、そうかなあ・・・という気がしないでもない。
実は、私が一番興味を惹かれたのは、「2つのタイプに分かれる」という点だ。
宗教学者岸本英夫氏も『死を見つめる心―ガンとたたかった十年間―』の中で、
同じようなことを言われている。以下、少し引用してみる。
====================================================
さて、死の問題という視覚から、現代人を眺めてみると、死に対する態度が、人によって異なる。その態度が、大きくは、二つの類型にわけて考えられる。現代人を、二種類の人間類型にわけてみることができるように思うのである。その一つは、死を忘れて生活する人間類型に属する人々である。現代社会では、大多数は、この類型に属する。他の一つは、死に脅えて生きている人々の人間類型である。これは、前者にくらべると、はるかに少数ではある。しかし、それは前者に対立する、現代人の生死観を考える場合には、見おとしてはならない重要なものである。
=====================================================
私はここでいう「死に脅えて生きている」人々に属するとわかったのだが、
何よりも「死を忘れて生活する」人々がいて、それが大多数だという指摘に驚いた。
しかし、氏のこの言葉に妙に納得するところもあった。
それは、義父が死に、その後、数年して義母が亡くなった夜だった。
独身の義妹が、「こんなん(母が死ぬ)やったら、あの時結婚しておいたら良かった!」と
叫んだので、私は思わず義妹に聞いたのだった。
「00ちゃん、あんた、お母さんの方が先に死ぬのが人間の理やから、
お母さんが死んだら、自分は一人ぼっちになるって、今まで考えたこと、無かったん?」と聞いた。
すると、義妹は「そんなこと、考えたこと無かった!」と答えたから、
私はビックリ仰天したのだった。
人間は誰でも皆死を意識して暮らしているが、
ただそれを口に出さないだけだと、それまでずぅ~と思っていたからだ。
死を考えないで暮らしている人間がいるとは、私はそれまで想像もしたことがなかった。
でも、確かに、死を深刻に考えないで暮らしている人がいるということは次第にわかってきた。
それは私が「人間は死んだらどうなると思う」と家族や知人に尋ねたときの答えや反応から、
死を深刻に考えない人が意外に多いことを実感したからだった。
どちらのタイプが得かといえば、
それはもう曽野氏が言われているように「生に向かう性格」だろう。
ただ、はっきりとわかったことは、私は「死に向かう性格」だったのだということ。
そして、パスカルも。