今日から聖書日課は「伝道の書」
長らく聖書の中で一番好きだったのが、旧約聖書の「伝道の書」と「ヨブ記」だった。
なぜそんなに惹かれるのか最初はわからなかったが、後にパスカルの「パンセ」を読んでわかった。
”人間の惨めさ”を「伝道の書」と「ヨブ記」が語っていたから、当時、それに悩んでいた心が共感したのだ。
パスカルは「パンセ」の中で言っている。
惨めさ。
ソロモンとヨブは、人間の惨めさを最もよく知り、最もよく語った人である。前者は、最も幸福な人。後者は最も不幸な人。前者は体験によって快楽のむなしさを知り、後者は苦難の現実を知ったのである。『パンセ 断章174』(中公クラッシックスW10)
*「伝道の書」の作者については諸説があるが、イスラエルの王「ソロモン」とする解釈が一般的。
ソロモンとヨブが聖書で語った人間の惨めさについて、別の断章ではパスカルはこう言っている。
惨めさ。
われわれの惨めなことを慰めてくれるだた一つのものは、気を紛らすことである。しかしこれこそ、われわれの惨めさの最大のものである。なぜなら、われわれが自分自身について考えるのを妨げ、われわれを知らず知らずのうちに滅びに至らせるものは、まさにそれだからである。『パンセ 断章171』
なぜ、気を紛らすことが人間の最大の惨めさなのか。
それは、彼の言う”気を紛らす”とは、人間の根源的な問題について目を反らして考えないことを意味するから。
気を紛らすこと。
人間は、死と不幸と無知とを癒すことができなかったので、幸福になるために、それらについて考えないことにした。『パンセ 断章168』
だからこそ、彼は「人間は考える葦である」という有名な言葉を残している。
人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。(中略)だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。『パンセ 断章347』
パスカルは、考えない葦の人たちについて「私に同情心を起こさせるよりは、むしろ私をいらいらさせる。私を呆れさせ、恐れさせる。それは私にとっては、一個の怪物である。『パンセ 断章194』」と非難するが、彼らは怠惰なのではなく、元々DNAにそう組み込まれているタイプではないかと思っている。
遺伝子の生き残り戦術か、神が敢えて2タイプを創造されたのか。。。
フランシス・W・ニューマンの「神はこの地上に、二家系の子供、すなわち一度生まれの子と二度生まれの子をもっておられる。」を思い出す。
この本、手に入ったのは嬉しいのだが、1862年出版の本の復刻版?で、スキャナ画像の印刷なのか、文字が歪んでいたりして読みにくいのだ。(((^^;)
と、これは言い訳。(((^^;)
ヒョウビン、聡太くんと、いろいろ追っかけで忙しいの。(((^^;)
話を元に戻すと、「伝道の書」1章はこういう結び。これもまた、真実。
1:16 私は自分の心にこう語って言った。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」
1:17 私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。
1:18 実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。
ところで、日本では「伝道の書」は人間の「空しさ」を語っていると言われるが、パスカルの語る「むなしさ」は有名な「クレオパトラの鼻」で例えられている。パスカルが使った仏語が何かは知らないが、日本語の「空しさ」とクレオパトラの鼻で例えられている「むなしさ」とは少しニュアンスが異なるような気がする。
人間のむなしさを十分知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果をよく眺めてみるだけでいい。原因は、「私にはわからない何か」であり、その結果は恐るべきものである。この「私にはわからない何か」、人が認めることができないほどわずかなものが、全地を、王侯たちを、もろもろの軍隊を、全世界を揺り動かすのだ。
クレオパトラの鼻。それがもっと低かったなら、地球の表情はすっかり変わっていただろう。『パンセⅠ 断章162』