P150 「綴りと発音」
先ず、現代仮名遣いの、一見単純明快な「発音通りに綴る」という原則が、放送局や新聞社の現場では混乱をもたらしている。なぜなら、発音には個人差、地域差があるし、変化もし易いからだ。この発音と綴りの差がどうしようもなく開いた時に、なし崩し的に綴りが発音に追随していく。が、しばらくすると、また発音の方は綴りから離れるのでイタチごっこは際限ない。それは、漢字という意味を担う文字を持った宿命で、音を表すことを任務とする仮名による綴りは、いくら変わっても構わないという暗黙の了解ができてしまったからだ、と説明する。
これを読んで、当地の小学生が「勢い」を「いきよい」に、熟字訓「河原」を「かわはら」と、振り仮名を書く傾向にあることを思い出した。実際に生活の場ではそういう発音で聞いているからだ。
また、年配のご婦人にPCでのローマ字入力をお教えしていた時、「<お>を[O]と入力するのはわかるけれど、<を>はどう入力したらいいのですか?」と質問を受けたことを思い出した。<お>と<を>は発音が同じだが、綴りが違うからだ。そこで、「同じ発音なのに<お>と<を>の異なる綴りがあるのは、昔はこの2つは異なる発音だったからです。<お>は[オ]、<を>は[ウォ]のように発音していたようです。それが今では同じ発音になったのに違う綴りが残っているのは、担う意味や機能が違うからです。」と教えてあげると納得してくださったが、これなども「発音通りに綴る」という原則がもたらした混乱ともいえるだろうと思った。
しかし、米原さんの真骨頂は、次の件ではないだろうかと思った。
英語に見られるように、表音文字しか持たない言語においては、綴りと発音は無関係と言えるほどにかけ離れてしまう。それでも、彼らは決して、発音に合せて綴りを変えようなんて発想はしない。そんなことをしたら、綴りが担っている意味を失ってしまう、というのだ。たとえば、ほぼサイコロジーと発音されpsychology と記され心理学と訳される語は、綴りのおかげで、その中にギリシア語のプシュケーpsyche(心)とロゴスlogos(学)を読みとることができて、語の意味をより把握し易く覚え易くしているのだから、と。
つまり、表音文字とは名ばかりで、音を表していない。語の綴りが歴史と意味を、発音が現在を各々分担している。その証拠に発音記号なるものがある。日本語の仮名は文字と発音記号の間の中途半端な存在であるために、混乱に拍車をかけているのだろう。
「表音文字と表意文字」「アルファベットと漢字と仮名」について、まさに、目からうろこだった。