語源は、創世記10章3節と歴代誌上1章6節に書かれている「ゴメルの子孫アシュケナズ」。
<創世記10章3節>
10:1 これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。
10:2 ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。
10:3 ゴメルの子孫はアシュケナズ、リファテ、トガルマ。
10:4 ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人。
10:5 これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。
<歴代誌上1章6節>
1:1 アダム、セツ、エノシュ、
1:2 ケナン、マハラルエル、エレデ、
1:3 エノク、メトシェラ、レメク、
1:4 ノア、セム、ハム、それにヤペテ。
1:5 ヤペテの子孫は、ゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。
1:6 ゴメルの子孫は、アシュケナズ、ディファテ、トガルマ。
もう一つの系統は「セファルディ」と言われ、主にスペイン・ポルトガル方面や地中海沿岸地域に定住した人々を指す。セファルディはセファルディムの単数形。これも、聖書由来の語。
<オバデヤ書20節>
1:20 イスラエルの子らで、この塁の捕囚の民はカナン人の国をツァレファテまで、セファラデにいるエルサレムの捕囚の民は南の町々を占領する。
セファルディの言語は、ラディーノ語(別名:ユダヤ・スペイン語、ジュデズモ語)であり、アシュケナジが話すイディッシュ語とは異なる。
様々なルートからヨーロッパに入って定住したユダヤ人は西欧では迫害を受けるようになり、1290年にはイングランドから、1394年にはフランスから、1492年にはスペインから、1497年にはポルトガルから追放される。
追放された彼らの多くはオランダや東欧(オーストリア、ボヘミヤ、モラビア、ポーランドなど)へ逃れていった。
Expulsions of Jews in Europe from 1100 to 1600.
*By Expulsión_judíos.svg: Ecelanderivative work: ecelan (talk) - Expulsión_judíos.svg, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10844808
The Jews in Central Europe (1881)
*By Richard Andree - Zur Volkskunde der Juden, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5950028
アウシュビッツ強制収容所がポーランドにあることは知っていたが、なぜポーランドにあれだけユダヤ人強制収容所が多かったのかについては考えたこともなかった。ポーランドは追放されたユダヤ人のヨーロッパでの最後の安住の地だったのだ。
ポーランド王国は1264年に「カリシュの法令」を出して、ユダヤ人の社会的権利を保護したと言われる。また、第二次世界戦でドイツに占領されるまで、ポーランドにはユダヤ人自治区「シュテットル」こそあれ、「ゲットー」というものがまったく存在していなかったという。13世紀の「カリシュの法令」以来、ヨーロッパのほかの国とは異なり、民族的に寛容な政策を国家・社会の根幹をなす伝統としていて、ユダヤ人はごく一部の大都市の旧市街を除いて、基本的にどこでも自由に住むことができ、その旧市街でさえも、ユダヤ人居住制限が近世にどんどん緩和されていった国だったと知って、恥ずかしい話だが驚いた。
5月上旬に訪れたプラハも基本的にはポーランドによく似ていたように感じた。
時の君主によって、保護されたり、追放されたりの変遷はあるが、西欧のような大規模の虐殺や激しい迫害は少なかったようだ。
いずれにせよ、彼らは後にアシュケナージと呼ばれ、同じディアスポラのユダヤ人でありながら、セファルディとは文化も言語も異なった。