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ステロイド剤と2人3脚の全身性エリテマトーデス(SLE)患者の " 猪突猛進、横道うろうろ "人生備忘録:落ちこぼれクリスチャンが心を入れ替えて(- -;)学ぶ日々の「御言葉」と、スペイン語の勉強、SLEの病状などの日々のささやかな記録・・・というのが当初の自己紹介でしたが、今は、単に「日々生きて、夢中になった事ごとの記録」(((^^;)


by dande550213
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平穏死できた母


母を看送った後で、この本を読んだ。
平穏死できた母_f0096508_840436.jpg
長尾和弘著『「平穏死」10の条件』(2012年 ブックマン社)

母の最期は「平穏死」だったのだと知った。

母がこのような最期の迎え方を知っていて望んだのか、知らなくて偶然そういう最期を迎えたのか、今となっては知るすべもないが、まさに母の最期は「平穏死」だった。

母は生前、自分の父の最期のような「ピンコロ」を望んでいた。

祖父は、80歳の時に、墓参りをした後、突然心筋梗塞に襲われてそのまま絶命した。長患いもせず、下の世話もしてもらわず、死の直前まで普通に過ごしていた。

そんな最期の迎え方を母は常々うらやましがっていたし、80歳になってからは、しきりに「80歳はおじいちゃん(父)が死んだ歳やから・・・」と、暗に自分もこの歳に死ぬかもしれないような意味ありげな話をよくしていた。そして、81歳の誕生日を迎える5日前に死んだ。

母は癌だったにも拘わらず、抗がん剤治療を止めて、ホスピスに移り、1週間後に、すべての薬、食事、水分を絶って、死を待った。祖父のような「ピンコロ」ではなかったけれど、3回ほど鎮静剤を使用しただけで、末期癌とは思えないような穏やかで自然な最期だった。

日に日に痩せこけていく母を見守るのはつらかったけれど、この本に書かれているように、脱水で身体が省エネモードになり、心臓にも負担がかからなかったのか、母の呼吸は最後まで楽だった。

母の身体は、すべてを絶ってから2週間近くも機能し続けた。痛みもなく、尿も便も毎日あり、死の前々日まで、母は身体を支えてもらって、ポータブルトイレで排便した。どこからそんなエネルギーを作り出すのか、本当に人間の身体は神秘的だと思った。


一方で、母は「在宅」をイヤがった。「病院に居たい、一番安心できる。」と言った。

普通は、住み慣れた故郷の自分の家で最期を迎えたいと思うだろうに、頑なに「在宅」を拒んだ。介護であろうと、看護であろうと、ホスピスであろうと・・・。だから、2月中旬に家を離れてから、一度も家には帰らなかった。家での一時外泊を勧めたが、帰りたくないと拒んだ。

なぜ、あれだけイヤがったのか、今でもよくわからない。

妹は、「そんなん当たり前やんか。<あの家>はお母さんが生まれ育った家ではなく、嫁いだ家やからや。」と言う。しかし、そういう妹も自分が生まれ育った<あの家>にそんなに帰りたいとは思わないそうで、そういう点では、母と妹は似ているかもしれない。

父の死後、<あの家>が母の重荷になっていたのかもしれない。

いずれにせよ、母が自分の意志で最期の迎え方を決め、それを貫き通し、結果として「平穏死」を迎えることができたのは、母にも私たちにも大きな幸せかもしれないと、この本を読んで感じた。
by dande550213 | 2014-05-24 09:40 | 両親介護 | Comments(0)