アウグスティヌス、パスカル、ルターが御三家ではないかと私は思っている。
私は申し訳ないことに、つい最近まで礼拝メッセージがあまり心に残らなかった(私に原因がある)ので、古いところは記憶に無いが、ここ1年ぐらいの間に、礼拝でパスカルの言葉を2回ほど聞いた記憶がある。
1回目.「人間の心の中には神以外には満たすことのできない真空(空洞)がある。」
2回目.パスカルの賭け
1回目のときはビックリして、礼拝後牧師先生に、本当にパスカルがそう言ったのか確かめに行った。牧師先生は「パンセ」に書いてあると言われた。
パスカルと言えば、数学者、物理学者、哲学者で「人間は考える葦である」という有名な言葉を残した人としか、知らなかったから、パスカルとキリスト教の結びつきにビックリしたのだった。
そのとき、すぐ「パンセ」を読めばよかったのに不精して放っておいたら、つい1、2ヶ月ほど前に、今度は礼拝で「パスカルの賭け・・・」と言われた。
悲しいかな、前後の文脈は忘れてしまったので、どういう意味でそう言われたのか思い出せないけれど、「ええーっ?もしかして、パスカルもキリスト教を信じるのは賭けのようなものだって言ってるんやろか・・・?」と気になりだした。
そこで、思い切って「パンセⅠ」を買って読んでみた。
難解だけれど、目からウロコだった。彼の言いたいことが痛いほどよくわかるのだ。
空間・時間の無限の中に飲み込まれ「無に等しい人生」と「死による永遠の沈黙の恐怖」に怯えながら生きなければならないのに、自分の存在を失うことや、永遠の悲惨の危険に対して無関心な人々がいるということは自然ではないと思うことなど・・・。
疑うということは不幸だが、疑いのなかにいる場合に必ず果たさなければならない義務は、求めるということ。疑いながらも求めない人は、不幸であると同時に不正であると思うことなど・・・。
魂が死すべきものであるか、死なないものであるかを知るのは、全生涯にかかわることだと思うことなど・・・。
そして、パスカルは言う。
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「神は存在するか、しないか。きみはどちらに賭ける?
― いや、どちらかを選べということがまちがっている。正しいのは賭けないことだ。
― そう。だが、賭けなければならない。君は船に乗り込んでいるのだから。」
すでにこの世に生きている以上、この勝負を降りることはできない。賭けないということ自体が、結果的に一つの選択となるからだ。
賭け金は自分の人生である。神が存在するという方に賭けたとしよう。勝てば君は永遠の生命と無限に続く喜びを得ることになる。しかも、君の人生は意味あるものとなるだろう。賭けに負けたとしても、失うのものは何もない。
反対に、神は存在しないという方に賭けたとしよう。その場合、たとえ賭けに勝っても、君の儲けは現世の幸福だけである。死後は虚無とみなすわけだから、そこで得るものは何もない。逆に負けたとき、損失はあまりに大きい。来世の幸福をすべて失うことになるからである。
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だから、「神が存在する方に賭けるのをためらってはいけない」と!(笑)
これはおもしろい考え方だ!