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一緒に十字架につけられた二人の強盗のうちの一人がイエス様をののしったのに対して、もう一人が言った言葉
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
に対するイエス様の言葉。しかし、この言葉も第一言同様、ルカにしか記されていない。
それどころか、マタイでは「一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、イエスをののしった」とあるし、マルコやヨハネでは強盗は何もいわない。
このように記述が食い違いとき、私たちはどう理解したらいいのだろうか。。。
書誌学の立場からすれば、「どれか一つが正しい」または「全部誤り」になるのではないか?
しかし、「聖書は聖霊によって書かれた神の御言葉だから、一字一句正しい」と教えられてきた。
テモテ3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
だから、聖書学的には、「全部正しい」ということになるのではないか。。。
一体、どちらが真実なのか、ここもいつも迷う箇所の一つだ。
※チェーン式バイブルの「テモテ3:16」に対する脚注には次のように書いてあって、余計にわからなくなる。
(中略)神は、これらの人が聖書を書く時、聖霊によって導き、ただの機械的な口述筆記ではなく、彼らの個性を用い、また神のことばを誤りなく書くことができるように守られた。キリストは、聖書が一字一句誤りのないものであると証言された(マタイ5:18、ヨハネ10:35) 中略 しかし、霊感されたのは原典だけで、写本や翻訳には人間的誤りがあり得る。