26年前、同じ階の隣同士の病室に、同じ年頃のSLE患者が6人入院していた。中でも定兼さんは、病室は違ったけれど、彼女の息子と私の娘が同じ歳だったので、特に親しくしていた。当時、子どもたちは2歳前だった。ほぼ同時に入院したが、彼女はステロイドがよく効いたので、1ヶ月早く退院し、その後も経過は順調だった。
一方、私はステロイドの効きが良くなくて再検査したり、退院後もステロイド減量ができずに寝たり起きたりの生活しかできなかった。だから、彼女に会うために診察日を同じ日にして、病院の食堂でおしゃべりするのが、私の唯一の楽しみだった。
そんなある日、彼女がシャクリーという健康食品を勧めてくれた。彼女が順調に良くなっているのはこの食品のおかげだと言って、その販売員をしていた患者会の事務局長さんを紹介してくれた。その食品販売の説明を聞いた時、マルチ商法ではないかと疑ったが、良くなりたいという気持ちに負けて、手を出してしまった。月々1万5千円近くの食品購入を1年半ほど続けて、家計が苦しくなった。当時、私は子どもの保育も出来なかったので、子どもは2人とも保育所へ預け、その費用も大変だった。
食品を摂っても病気が良くならないこと、代金支払いが苦しいことなどを事務局長さんに告げると、他の人に商品を売れば、その代金の一部が入るから安く購入できることになる、早く良くなるには自分のように3倍量摂取する方が良い、と勧められたのを契機に、きっぱり止めた。
しかし、定兼さんは3倍量摂取をしばらく続けていたから、月々の支払も3万円近くだった。当時、彼女は堺市の一戸建てに住み、近くに彼女のご両親も住んでいて、かなりゆったりした生活をしていた。患者会の宿泊交流会に共に子ども連れで参加し、彼女の息子と私の娘が仲良く遊んだのもこの頃だった。
その後、彼女のご主人が会社を辞めて、事業を始めたので、一戸建てから公団の集合住宅に変わり、彼女もシャクリー商品購入を止めた。息子の成績の良いことが彼女の自慢で、ご主人の事業がうまくいかないことと、自分の病気が良くならないことが彼女の心配事だった。
そのうち、彼女は過呼吸症候群を併発するようになり、通院以外、ほとんど外出しなくなった。通院もご主人の車になったので、私たちは診察日に会うこともなくなった。「電話でおしゃべり」が唯一の交流手段だった。
その後、ご主人が亡くなり、彼女は生活保護になった。彼女の自慢の息子も大学進学を諦めなければならなくなった。それでも電話で話す彼女の声は、初めて会った頃と変わりなく、明るく屈託がなくて、救われた思いがした。
しかし、彼女の体調が下り坂になるのに反して、私は体調が良くなり、ステロイド減量も進んで、いくばくかの仕事に就くことができるようになり、海外旅行にも出かけるようになり、何となく彼女に電話がしづらくなった。
電話の回数が次第に減り、ここ数年は年賀状のやり取りだけになってしまっていた。ご無沙汰していることに気がとがめ、彼女が家を出られないなら私が出向いて会いに行こうと思いながら、来年、来年と先延ばしにして、私は自分の楽しみばかり追い求めて、彼女を忘れがちだった。
彼女は私よりもステロイドが少なく、SLE自体は悪くないと聞いていたので、彼女の死など、考えたこともなかった。何人もの病友が先立っていったが、彼女は大丈夫だと思っていた。彼女は生き残れると思っていた。
彼女も、息子が一人ぼっちになってしまうから、どんなに苦しくても、絶対に死にたくなかったはずだ。
たった26年間の間に、6人の内4人が亡くなった。
この長寿社会にあって、みな60歳の声を聞くか聞かないかのうちに亡くなった。
SLEの人はいつも、まるでろうそくの火を強く吹き消すように、あっと言う間に、突然亡くなる。