「(私は)被災者に、勇気を与えたい」
「(私たちは)被災者に、勇気や希望を与えることができたと思います」
などの言い方を耳にすることが多いが、何だか「変」と感じてしまう私は変なのだろうか?
というのは、「与える」という言葉は、そもそも
「相手の望みなどに対応するような物事をしてやる」という「上から目線の言葉」なので、
行為者本人が発すると、威張ったような尊大なニュアンスが伴うと、私は感じるのです。
発話者以外の人の行為として話題にする場合は、何ら問題はないと思います。
例えば、
「彼(の活躍)は、被災者に勇気/希望/感動を与えた」などでは違和感は感じませんが、
「(私は)被災者に勇気/希望/感動を与えることができれば・・・と思っています。」というような言い方には、私は少し違和感を感じてしまいます。
じゃ、私なら、このような時、どう言うかと考えてみると、
「(私は)被災者を勇気づけることができれば、うれしい/幸いです。」
「(私は)希望の光を感じてもらえれば、うれしい/幸いです。」
かな・・・。
「(自分が相手に)感動を与える」という言い方は、そもそも発話者本人の行為としては恐れ多くて使えないような気がするだが、こう感じる私は変なのだろうかと、思い悩んでいる。
芸術でも何でも「感動を与える」ではなく、受け手が「感動する」ものだと思うので。「勇気」や「感動」を「与える」というのは、発信者の「独りよがり」のように思います。
自分自身の言葉についても言えることですが、
最近の人達の言葉で思うことは
「語彙が少ない・貧しい」ということです。
もっと他に適切な語彙や表現があるのにそれを知らず、
「少ない語彙の中から一番近そうな語彙・表現で間に合わせている」
そんな印象を受けます。
例えば、よく「感動しました」という言葉を耳にしますが、
これも違和感を感じる言い方です。
「感動した」という表現は、そんなに簡単に軽く使えるような表現ではないと思うのですが、これまた頻繁に発話されるので、「良かった」ぐらいの軽い意味しか感じられなくなってきました。