よく観察すると、そういう方は、牧師先生のような教職者や霊的に豊かな信仰心厚い信者さんが多いような気がする。
私はそのような言葉を発しないので、最初はびっくりして、この人は少しおかしいのではないかと思ったことがあった。
最近、私も「アーメン(そのとおりです)!」と応答することはよくあるようになった。
しかし、「ああ・・・主よ・・・」とか「ハレルヤ(主を褒めたたえよ)!」とかの、主を褒めたたえるような讃美の言葉はまだ出てこない。
「まだ」とこだわってしまうのは、自分の中で、「出てくるほうが良い」と思っているからだろう。
しかし、これは訓練や習慣付けなどで強制的に出てくるようにするものでもないし、人それぞれだから・・・と、あまり深く考えないでいた。
「讃美歌と聖歌」でも書いたように、私は讃美の歌も出てこなかった。出てこないのは、歌詞やメロディが覚えられないからではなく、讃美したい気持ちが沸いてこないからだったと思う。
「神への賛美を捧げる」ために歌うはずなのだが、「神への賛美」がよくわからなかったので、「自分は、ただ儀礼的に歌っているだけだ」と違和感を感じていた。
「自分は(適切な言葉ではないが)どうも本物のクリスチャンではないようだ」という劣等感に苛まれながら、それを押し殺すようにして、せめて奉仕だけは・・・と、がんばってきたように思う。
だから、「喜び」はなかった。
義務感でいっぱいで、教会は私には「学校」にように思えた。
教会という学校の霊的劣等性。
私はそう自己評価し、それでも歩いて10分というお手軽さも手伝ってか、教会からは離れなかった。
私は元来合理的な思考ができるタイプの人間では無かったから、「合理的な人間・理性的な人間」に強い憧れを持っていた。自分もそうなりたいと願い、できるだけ、非科学的なことは排除しようという意識が強かったように思う。
だから、サウルでないけれど、クリスチャンになってからも「霊的なこと」に関心は薄かった。
神の存在は認めているが、それが私とどう関わりがあるのか、その辺のことがよくわからないままに、惰性でクリスチャンを続けていたように思う。
なぜ、こうなったかは、散らばったパズルの断片のように、おぼろげながらわかるのだけれど、それを自分の力では正しい位置にはめ込むことができない、そんなもどかしさを感じていた。
昨年から祈祷会に参加するようになって、より強くこのことを意識させられるようになった。
祈祷会では、頭でっかちの小手先だけの好き勝手なことを話していたが、メンバーの方々は辛抱強く聞いてくださった。
でも、そんな自分に自己嫌悪して、この唇が潔められるまで祈祷会は休みたいなあ・・・と、また自分勝手なことを考えるようになっていたが、年末のH姉の言葉で、木曜日にも祈祷会があることを知り、こちらならたぶんテープで牧師先生のお話をきくだけだろうと思って、昨日出席したら、なんとこちらは(もっと苦手な)祈り会が中心だった。
昨日の祈祷会での学びは「ハレルヤ」で、レジュメを見ながら、牧師先生の説き明かしのテープを聴いていて、ギクッとした。
それは、
「もし、ハレルヤが出てこないとしたら、それは主に頼っていない、信頼していない、それだけのことである。」
という言葉だった。
あまりにも簡単な答えで、唖然としたが、図星だと思った。
私は「人の力を用い、自分の力でがんばり、神さえも利用しようとする本性を巧みに隠して(ベラカ2009.1 P36)」生きてきたのかもしれない。
人の力(主体的に思考・行動して解決を図る)が、どうしても手放せないのだ。
追記
今日の夕刊(09.01.16 朝日新聞PM)で、
難病のため、長年闘病生活を送りながら執筆活動を続けておられる生命科学者の柳澤桂子氏が、ナチスに処刑されたドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーが残した言葉「神の前に、神とともに、神なしに生きる」を引用して、"謙虚に、自分を大事にして、自分の足で生きるという「神なしの境地」が私には理想の生き方です。"と結んでおられるが、揺さぶられる。