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ステロイド剤と2人3脚の全身性エリテマトーデス(SLE)患者の " 猪突猛進、横道うろうろ "人生備忘録:落ちこぼれクリスチャンが心を入れ替えて(- -;)学ぶ日々の「御言葉」と、スペイン語の勉強、SLEの病状などの日々のささやかな記録・・・というのが当初の自己紹介でしたが、今は、単に「日々生きて、夢中になった事ごとの記録」(((^^;)


by dande550213
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過去に書いた文章から⑥2010年12月 SLE25年目(55歳)の時
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2010年12月『 私の闘病記―闘病25年の心の軌跡~死(無)に怯える心からの解放~3/30 』
          (全国膠原病友の会 関西ブロック 『明日への道 ブロック版 №122』)

はじめに
1.「抑うつ状態」の39歳までの私
2.何をきっかけに再起したか
3.再起後の猪突猛進「生き急いだ40代」
4.洗礼を受ける
5.死に対する恐怖
    (1)パスカルの場合
    (2)私の場合
    (3)大町公氏の場合
    (4)岸本英夫氏の場合
6. 人間の死生観の2つのタイプ
7.「抑うつ状態」の奥に潜んでいたもの
8. 賭け
    (1)パスカルの賭け
    (2)私の賭け
    (3)岸本英夫氏の賭け
9.私のジクソーパズルの完成と心の平安
10. 最後に
*******************************************************
1. 「抑うつ状態」の39歳までの私 2/2

 もう一つは、夫との家族観の相違に孤立を深めていったような気がします。

 夫は悪い人ではないのですが、結婚していても独身時代と同じように家族に束縛されずに自由に生きたいと願う人です。夫婦は結婚していても互いに自由で独立した存在だといって、病気の私や子どもたちを置いて、余暇には自分だけ海外旅行や国内旅行に出かけることが多かったのです。今もそうですが、土日は研究会に出かけます。育児や家事にはあまり協力的ではなく、「働いて家にちゃんと給料を入れているのだから、後は自分の自由にさせてくれ。」というのが彼の言い分でした。

 近所に夫の後輩で同僚でもある方がいらっしゃいますが、その方の奥さまがリューマチとSLEを患っておられ、子供たちが同級生ということもあって、私たち夫婦は懇意にしていました。そのご夫婦はご主人と奥様がいつも一緒で、ご主人が献身的に奥様の闘病生活を支えておられました。私はその奥様(彼女は12年前に亡くなりました)がうらやましくてたまりませんでした。

 「夫婦は結婚していても互いに自由で独立した存在だ」というのはたてまえとしてはそうあるべきでしょうが、一方が病人、それも難病者ともなれば対等を求められると辛いことを夫にはなかなか理解してもらえません。そのような中で、私は次第に孤立感を深めていったのではないかと思います。

                                      (続く)
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by dande550213 | 2010-12-28 18:05 | SLE・健康 | Comments(2)

過去に書いた文章から⑥2010年12月 SLE25年目(55歳)の時
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2010年12月『 私の闘病記―闘病25年の心の軌跡~死(無)に怯える心からの解放~2/30 』
        (全国膠原病友の会 関西ブロック 『明日への道 ブロック版 №122』)

はじめに
1.「抑うつ状態」の39歳までの私
2.何をきっかけに再起したか
3.再起後の猪突猛進「生き急いだ40代」
4.洗礼を受ける
5.死に対する恐怖
    (1)パスカルの場合
    (2)私の場合
    (3)大町公氏の場合
    (4)岸本英夫氏の場合
6. 人間の死生観の2つのタイプ
7.「抑うつ状態」の奥に潜んでいたもの
8. 賭け
    (1)パスカルの賭け
    (2)私の賭け
    (3)岸本英夫氏の賭け
9.私のジクソーパズルの完成と心の平安
10. 最後に
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1. 「抑うつ状態」の39歳までの私 1/2

 教壇発表後の感想文から1年半後に「私の闘病記―発病して3年―」(「明日への道ブロック版 №55・56」)をまとめました。それを私は、次のような言葉で終えています。

 発病して3年、まだ3年なのに、私にとっては本当に長い3年だったような気がします。病気に対してあまりにも神経質になり過ぎたり、また逆に、病気に慣れて自分の判断で薬を飲んだりと、様々な失敗を積み重ねてきました。今もまだ長いトンネルの中に入っていて、出口の見えない状態ですが、新たな気持で3年目を迎えたいと思っています。

 現状を「長いトンネルの中に入っていて、出口の見えない状態」と表現しているのです。「出口を指し示すかすかな光すら差し込まない真っ暗な長いトンネルの中で、出口を探してもがいているような戸惑いと不安に満ちた希望の見えない状態の中にいる」と感じ始めているのです。

 もちろんこの頃は大量の尿蛋白で体も少し浮腫み、ステロイドも平均で15mg/day以上、それでも足りなくて免疫抑制剤を服用していたので病状は今よりはずっと重かったのですが、常に「得体の知れない焦燥感・不安感に押しつぶされそうな圧迫感」を感じていました。音楽を聴くと妙にイライラし、その後自分が全く聴かなくなっただけでなく、夫がBGM代わりに音楽をかけるのも嫌がりました。身だしなみも構わずに、表情の乏しい生気のない顔をしていました。後から振り返ると、この頃の私は「抑うつ状態」ではなかったかと思っています。

 何故、こういう状態に陥ったのかを自分なりに考えてみると、一つは、真剣に本当に一生懸命療養生活をがんばったのに病気が再燃を繰り返すことから、何か自分の力でコントロールできない世界に落ち込んでしまったような無力感を感じていたと思います。

 「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。」 これは教育者だった父からよく聞かされて育った言葉です。「何事にもベストを尽くしなさい、そうすれば必ずその努力は報われる」という一種の「努力信仰」とも言えるでしょう。ですから、私は闘病生活においても一生懸命努力しました。

 当時の「私の闘病生活のバイブル」は故千葉敦子さんの一連の癌闘病記でした。彼女のように、自分の病気を正しく理解し、病気の再発と薬の副作用の予防という観点から患者が主体的にできることがあれば、それを実行することがひいては治療の一助になると考えていましたから、入院中に看護実習生さんからいただいた「SLEを悪化させる因子とその因子に対する予防対策、ステロイド剤内服で考えられる副作用と予防のための注意点、ステロイド内服についての注意事項」という手作りの療養生活の手引きを実行するだけでなく、友の会の医療相談会に参加したり、書籍を買って勉強したり、一生懸命努力しました。療養生活の手引きには、「このことを注意していくと、SLEの症状はある程度落ち着かせることができます。自分自身で、できるだけ注意していくようにしましょう」と書いてあったので、私の予後の善し悪しの少なくとも半分ぐらいは、私の生活態度如何にかかっていると考え、それならばその部分は自分自身の力でしっかりコントロールできるようにがんばろうと、涙ぐましいまでの努力をしました。

 ところが、同病の友達の療養生活は拍子抜けするほど「医者任せ」でのんびりしたもののように私には思えました。もしかしたら私は臆病な小心者なのだろうか?と悩んだこともありました。「病気に対してビクビクしている」と言われたこともありました。

 私は難病の難病たる所以がよくわかっていなかったのですね。否、知識としては頭の中でわかっていたつもりだったのですが、糖尿病や高血圧などの病気と同じように、ある程度自分の努力が反映する病気のように考えていたのだと思います。

 しかしながら現実は、私の努力を嘲笑うかのようにこの病気は気まぐれで、予測もコントロールもできない、何か人間の力の及ばない世界の魔物のようで、それを相手に真剣に戦っていた私は方向を見失い、次第に虚無感に襲われていったのではないかと当時を推測します。不思議なのは、当時どうしてそんなに必死に頑張ろうとしたのだろうかということです。「私の闘病記―発病して3年―」には、「家族のために一日でも早く良くなりたい、良くなるためならどんな辛いことでも我慢すると必死だった」と書いていますが、実はそれだけではなかったのです。そのことには後で気がつきました。

                              (続く)
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by dande550213 | 2010-12-28 13:50 | SLE・健康 | Comments(2)

過去に書いた文章から⑥2010年12月 SLE25年目(55歳)の時
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2010年12月『 私の闘病記―闘病25年の心の軌跡~死(無)に怯える心からの解放~1/30 』
         (全国膠原病友の会 関西ブロック 『明日への道 ブロック版 №122』)

はじめに
1.「抑うつ状態」の39歳までの私
2.何をきっかけに再起したか
3.再起後の猪突猛進「生き急いだ40代」
4.洗礼を受ける
5.死に対する恐怖
    (1)パスカルの場合
    (2)私の場合
    (3)大町公氏の場合
    (4)岸本英夫氏の場合
6. 人間の死生観の2つのタイプ
7.「抑うつ状態」の奥に潜んでいたもの
8. 賭け
    (1)パスカルの賭け
    (2)私の賭け
    (3)岸本英夫氏の賭け
9.私のジクソーパズルの完成と心の平安
10. 最後に
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 はじめに、25年間の私の病歴を簡単に紹介します。

 85年、30歳の時にSLEを発症して4ヶ月間入院しました。初発症状は顔や腕の紅斑と大量の尿蛋白・白血球減少・抗核抗体上昇・補体価低下で、腎生検の結果ループス腎炎WHO5型とわかり、プレドニン60㎎/dayで治療開始、4ヶ月後に20㎎/dayで退院しました。当時、子どもは長男4歳・長女1歳半でした。現在55歳でプレドニン7.5㎎/dayで維持しています。

 私の25年間の病状の変化と闘病生活の歩みを[図1]にまとめました。
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               [図1 25年間の病状と歩み]

 SLEで入院したのは初発時の1回だけです。再燃は①87年(32歳)②88年(33歳)③91年(36歳)④94年(39歳)⑤01年(46歳)の5回ありましたが、いずれも免疫抑制剤やプレドニン増量で在宅で対処しました。ステロイド10㎎/day以下で何とか維持できるようになったのは発病後12年たってからで、入院回数が少ないわりには長期間にわたり大量のステロイドを服用していると自分では思っています。経験上、7.5㎎/dayを切ると押えきれずに再燃するような気がします。

 プレドニンを服用してすぐに、副作用と思われる高血圧・白内障・頻発する 膀胱炎・筋力低下に悩まされるようになりました。鉛の板を背中に背負っているような疲労感や倦怠感を感じるようになり、治療によって病気が良くなっている実感があまりありませんでした。

 私の闘病生活は39歳を境にして激変します。39歳で突然闇雲に病の床から立ち上がり、疾風怒濤のごとく40代を「生き急い」で、今ようやく実りの50代を迎えることができました。昨年、SLEになって初めて「心の平安と幸福感」を感じるようになりました。25年間かかって、私はようやく「暗くて長いトンネル」を抜け出したのです。そのことを友の会に報告したくて、十数年ぶりに友の会の行事に参加し、そこで事務局長の久保田さんから「大野さん、また教壇に立ってもらわれへん?」と言われたのでした。

 実は私は23年前の32歳の時、発病後1年半で教壇に立って闘病体験を学生さん達に語ったことがあります。その時の心境を、私は次のように綴っています。

 私は発病以来、幼い子どもたちのために何とか平穏に永らえたいと願い、ひたすら療養に努めてきました。最低限の家事と子どもの世話が私のでき得る限りの仕事で、私にはこんな生活しかないのだと諦めていました。期限を決めて何かの目標に向かって挑戦することができるとは、不思議なことに考えてもいませんでした。肉体的のみならず、精神的にもひどく臆病になっていたのです。ですから、この発表をやり遂げた時は、口では言い表せないような満足感で一杯でした。" 私にもできるのだ "という喜びと、病気だからと言って夢や希望まで捨てないで、もう一度、自分のための人生を生きるようにがんばってみよう、という想いがわき上がってきました。(教壇に立って「自分のための人生をもう一度」明日への道ブロック版№52)

 この時は確かにそう思ったのですが、私はその後7年間ほど「夢も希望もない、ただ息をしているだけ」というような生活を送ってしまったのです。

 患者が教壇に立つ活動の意義を、患者側から考えて「個々の病歴をまとめる作業に始まって、学生の感想文を読むまでの過程の中で『反省』『発見』『認識』『自信』『自立』へと成長発達を遂げる(菊池素子「―30周年記念講演―患者として看護師として」明日への道 №103)」とすることができるならば、私は発表後『認識』の途中で止まってしまったといえるかもしれません。

 しかし、あることを契機に教壇発表後7年目にして39歳でようやく立ち上がることができ、『自信』『自立』への道を歩み始めることができました。それでも尚且つ、心の奥底の「満たされない何か」に長い間喘いできました。その正体がわかったのが06年で、その問題が自分なりに解決して「真の心の安らぎと幸福感」を得ることができるようになったのが昨年のことなのです。

 この間の25年間の歩みを「心の軌跡を見つめて」という観点から語りたいと思います。恐らく、私の個人的な性格や気質に起因する「私特有の物語」であろうと思います。「人は、一人ひとり異なるのだ」と理解してくだされば幸いです。また、本からの引用が多いですが、その点もお許しください。私にとって本は、私の人生に寄り添い、考え方や生き方に新しい手がかりを与えてくれる「親友」なのですから。

                             (続く)
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by dande550213 | 2010-12-27 10:45 | SLE・健康 | Comments(0)

過去に書いた文章から⑤2010年12月 SLE25年目(55歳)の時
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2010年12月 『教壇に立って~新しいジクソーパスルの新しいピースがピシッと収まったような喜び~ 』
         (全国膠原病友の会 関西ブロック 『明日への道 ブロック版 №122』)


 「もう二度としたくない」と長年思っていた「患者の教壇に立つ活動の発表者」を、昨年末の交流会の席上で、なぜいとも簡単に「ホイ、ホイ」と引き受けてしまったのか(笑)。また例の私の「走りだしてから、走りながら考える」悪い癖が出たなと思いました。強いて理由をつけるなら、来年は私にとって「SLEとの銀婚式」にあたる記念すべき年であり、さらに「新しい母校」を目に心に刻みつけておきたかったのかもしれません。

 私はSLEになって今年で25年目を迎えました。発病1年半の時に、一度教壇に立って学生さんの前で語ったことがあります。その時の教壇は、奇しくも私の母校の旧校舎(帝塚山学舎)でした。発表したにも関わらず、その後7年近く沈没し、何とか立ち上がった後も満たされない思いに喘いでいましたから、私は教壇に立つ活動の「落ちこぼれ」だと長年コンプレックスを持っていました(笑)。ですから、もう二度とすることはないし、したくないと思っていたのです。

 「新しい母校」というのは、私の母校大阪女子大が府立大・府立看護大と統合したので、府立大が私の新しい母校になったのです。中百舌鳥校舎へは学生時代にも何度か訪れたことがありましたが、羽曳野校舎は一度も行ったことがなく、死ぬまでに一度は新しい母校の新しい校舎を見ておきたいという気持ちが後押ししたような気がします。

 しかしながら本音は、自分の心の軌跡を振り返る機会を得て喜んでいたのです。ものぐさ怠け者の私は他からのプレッシャーがなければエンジンがかからないタイプなのです。ですから、プレッシャーを常に追い求めているという複雑な人間なのです(笑)。

 語りたいと思ったことは、SLEになって以来初めて訪れた「心の平安と幸福感の由来」でした。その過程の中に受洗と教会があります。しかしながらこれを語ることは、宗教の世界に踏み込んでしまいます。「公の場で特定の宗教の宣伝」とも受け取られかねない危険性について、事務局長の久保田さんに相談しました。久保田さんからは「洗礼を受けられたことで救われ、病と共に生き今日の大野さんがあるのですから、お話に入れていただいて構いませんよ」というお返事をいただきました。感謝です。

 さて、次に25年間を振り返る作業が必要になります。押入れのダンボール箱をひっくり返して、手帳や友の会の機関誌のガサ入れをしました。集めた資料を手元に、25年間を一望できるように1枚の紙にまとめる作業を始めました。25年間の私のステロイド量の変遷をエクセルでグラフに描いてみて「私の病状の経過も、膠原病の書籍に掲載されている<電波の波形の収束形?>を示している!」ことに妙に納得できました。25年という期間を経てこそ私の前に姿を現すことのできた<形>なのだと、感慨深く見つめました。

 私の心の変化を視覚的に理解してもらうために、発表では写真を効果的に使いたいと思いました。そこで、パワーポイントを使って発表することに挑戦してみようと思いました。発表者の代わりにそれを操作するのは何度もしていますが、自分が操作しながら発表するのは初めてで、この新しい経験にワクワクしてきました。

 私の個人的な心・魂の問題をどう表現したらいいのか、どこまで語ったらいいのかについては最後まで悩みました。その決心がつかないまま当日を迎えてしまいました。

 10年6月1日(火)の1時間目の授業で発表です。友の会大阪支部からは大黒由美子さん、関西ブロックからは入院手術の久保田さんの代わりに菊池素子さんが同行してくださいました。9時開始の朝一番の授業ですから、学生さんたち半分ぐらいは欠席だろうなぁと思っていたら、何と大教室はほとんど満員でびっくりしました。私は学生時代、1時間目の授業は寝坊と遅刻でまともに出たことがなかったので、開始前に席について授業の始まるのを待っている学生さんの真面目な光景に感動すら覚えました。

 看護学部の青山ヒフミ先生が学生に今日の授業の説明をしておられる間に、大黒さんに「(この真面目な)学生さん達は何回生ですか?」と尋ねてみました。「1回生です。」という答えに愕然としました。私は、膠原病やSLEのことをある程度学んだ学生さんに語るのだとばかり思っていたからです。もしかしたら私は、聴いてくださる学生さんにとって興味の持てないようなテーマを選んでしまったかもしれないと煩悶し始めました。いくら「私の物語」だからと言って、聴く人に理解できないような可能性のあるような内容は語るべきではないと思っていたからです。発表の主眼を変更して、病状と再起後の活力あふれる日々で終えるような語りにするか、それともそのままでいくか、混乱し、決まらないままに発表を始めてしまいました。図表と発表の順序を示した簡単なレジュメを配布していたので、途中で終えるとバレバレだなあ・・・と思いましたが、宗教がらみになる「8.賭け」と「9.私のジクソーパズルの完成と心の平安」は語らないで済まそうと、話しながら頭の片隅で変更を決めました。

 語るときには、決して涙は出さないように気をつけました。涙もろい性格なので、いったん涙がでると涙と鼻水の大合唱が始まって収集がつかなくなるのです。23年前の発表の時は、この醜態をさらしてしまいました。ですから今回はこの点だけを自戒しました。

 発表しながら、私は密かに学生さんたちの様子を観察していました(笑)。発表が彼らにとって意味不明なら下を向いたり、退屈そうな顔をしたり、私語をしたりするだろうなぁと考えていましたが、学生さんは姿勢を正して正面を向いて、真剣な表情で私の話を聴いてくれています。「ついこの前高校を卒業したばかりの子たちがほとんどでしょうに、この子たちはすごいわ!」と、私の方が圧倒されました。

 ただ時間の関係で8.と9.を飛ばしていきなり結論の10.に飛んでしまったので、学生さんたちきっと分かりづらかっただろうなぁ・・・と反省し、こんなテーマで話をしたことを後悔する気持ちが込み上げてきました。

 ですから2週間後に青山先生から送られてきた128名の学生さんの感想文を読んだ時には涙、涙、涙・・・で、声をあげて泣きました。多くの学生さんが私の途中すっ飛ばしの発表にも関わらず、私の真意を的確に理解し、共感してくれたのだとわかって、うれしくてたまらなかったのです。言葉足らずな私の真意を補ってくださった学生さんもいます。「彼らの若い瑞々しい感性はスゴイ!」と感涙にひたるとともに、「ああ、私の発表は無駄ではなかったんだ!」という思いが込み上げてきて、また涙、涙、涙で、その日は一日中涙が溢れて止まりませんでした。

 今回頂いた学生さんの感想文は、私の人生の最良のご褒美となりました。

 さらにひと回り大きな私の新しいジクソーパズルが目の前に広げられて、今新たなピースがピシッとその位置に収まった、そんな気がします。

 さあ、次のピースはいつ私に示されて、どこに収まるのでしょうか?楽しみです。ワクワクしています。
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by dande550213 | 2010-12-25 22:23 | SLE・健康 | Comments(0)

過去に書いた文章から④1988年11月 SLE3年目(33歳)の時
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1988年11月『 私の闘病記―発病して3年―後編 9/9 』
       (全国膠原病友の会 関西ブロック 『明日への道 ブロック版 №56』)


<おわりに>
 発病して3年、まだ3年なのに、私にとっては本当に長い3年だったような気がします。病気に対してあまりにも神経質になりすぎたり、また逆に、病気に慣れて自分の判断で薬を飲んだりと、様々な失敗を積み重ねてきました。
 病気になって得たもの、失ったもの、様々ですが、今私がペンを執り、こうして文章が書けるのも私を支えてくださっている人々のお陰だと感謝しています。
 174㎝の身長に50㎏足らずの触れれば折れるような身体で頑張ってくれている主人、陰になり日向になり私を助けてくださる主人のお義母さん、道端の地蔵さんや神社をみるたびに「お母さんの病気が治りますように。」と祈ってくれる優しい子どもたち、みんな、本当にありがとう。
 最後になりましたが、機関誌の記事を通して、私に励ましと希望を与えてくださる友の会の皆さん、ありがとうございます。
         
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*この23年前の文章を入力しながら、過ぎ去った歳月の長さを痛感していました。子どもたちが成長し、長男が結婚を決め、長女は一昨日に引越して一人暮らしを始めました。私を支えてくださったお義母さんとお義父さんは亡くなられ、スーパーマンのように頼りになった私の父も今は要介護3の身となり、母の介護を受けています。私も確実に老いました。でも、私の本質は23年前と少しも変わっていないことに気がつき、苦笑させられます。夫も変わっていません。
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by dande550213 | 2010-12-25 20:01 | SLE・健康 | Comments(0)

過去に書いた文章から④1988年11月 SLE3年目(33歳)の時

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1988年11月『 私の闘病記―発病して3年―後編 8/9 』
         (全国膠原病友の会 関西ブロック 『明日への道 ブロック版 №56』)


<主人の何気ない一言に>
 そんなある日、夕食を食べながら主人が「うちの子どもたちは2人とも病気らしい病気もせずに元気で健康に育っているから、良かったなぁ。」と言ったことがありました。私はその時、「何を呑気なことゆうてんの!娘が私と同じ膠原病で苦しむ人生を送らなければならなくなるかもしれへんのに・・・」と小声で言い返しました。すると主人は「そうかもしれへんけど、今は健康で元気やし、膠原病を発病してへんのやから、それでいいんと違うか?」と言いました。
 そうなのです。将来発病するか否かは“神のみぞ、知る”です。そんな先のことを思い悩むよりも、主人の言うように「ああ、今日も家族皆が元気で健やかな一日を送ることができた。」と実感できる日々を、一日一日と積み重ねていくことが大切なのだと反省しました。こうして積み重ねていった日々が、やがて一年となり、また次の年を積み重ねていく、それで充分なのだと思いました。
 私と主人は、無口で無愛想などと似ている所もありますが、根本的に異なる所があります。それは、私は感情が勝り、つい大袈裟に悲観的に考えて思い悩む性格なのに反して、主人は理性的でいつも落ち着いているということです。
 つい最近、長男が工事現場で遊んでいて、頭部から出血して救急車で運ばれるという事故がありました。近所の奥さんから知らせを受けた主人は慌てることなく、「はぁ、子どもやからそんなこともあるでしょう。」と悠然として答えたと言って、その奥さんは驚いておられました。
 こんな性格なので、私の病気のことも長女のことも、主人は私ほどに深刻には考えていないようです。“くよくよ思い悩んでもしょうがないし、なるようにしかなれへん、思い悩む暇があったら、その時間をもっと有意義なことに使うべきだ。”とでも考えているのだろうと思っています。こんな主人に感謝の気持ちでいっぱいです。
                                (続く)
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by dande550213 | 2010-12-25 18:34 | SLE・健康 | Comments(0)

2010/12/24 :ハッピーホリデー
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ポンイトすると、画像が大きくなる。

日本は、きっとコレ。
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by dande550213 | 2010-12-24 09:26 | PC・IT | Comments(0)

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by dande550213 | 2010-12-23 11:10 | 雑感 | Comments(0)

過去に書いた文章から④1988年11月 SLE3年目(33歳)の時
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1988年11月『 私の闘病記―発病して3年―後編 7/9 』
           (全国膠原病友の会 関西ブロック 『明日への道 ブロック版 №56』)


<母親としての深い悩み―長女のこと>
 私には、私自身の病気以外にもう一つ大きな悩みがあります。それは長女のことです。
 一般に膠原病は素因に起因するところが大きいというのは周知の事実です。私は発病後、私の3歳年下の妹が慢性関節リューマチ(RA)を発病したのに疑問を持ち、自分のルーツを探ってみました。すると、私の母方の身内に自己免疫疾患が続出していることがわかったのです。
 母方の祖母は38歳の若さで亡くなりましたが、当時の模様を母に尋ねると、祖母は
SLEの症状を示し、最後は腎不全で亡くなっています。母方の祖父の方では、祖父の姉とその子どもたちがRAです。その祖父と祖母の間に生まれた3人の子ども(男1人・女2人)のうち、母の兄は抗原抗体反応などの免疫機構が関係すると言われるネフローゼで苦しんでいましたが、5年前に人工透析になりました。(主治医は、この伯父は恐らく男のSLEだろうと言われます。)母と母の姉も、若い頃から浮腫・貧血・倦怠感などの体の不調を訴えていましたが、今年の春に母が自己免疫疾患の一種と言われる甲状腺機能亢進症になりました。そしてこの3人の兄弟から生まれた7人の孫(男5人・女2人)のうち、私と妹がSLEとRAを発病しているのです。ですから、私と妹は隔世遺伝による発病だろうと言われました。私の症状がなかなか安定せず、治療が困難なのもこの強い素因が原因だと言われています。
 その上、もっと困ったことに、こんな私の結婚相手である主人の身内の方でも義妹がSLEを発病しており(*夫の伯父も後年ステロイドを服用する難病を発病し、亡くなりました)両親の双方から自己免疫疾患の素因を受け継いでいる私たちの子どもの発病の確率は“10分の1”と言われました。“10分の1”の確率とは、私が10人子どもを産めば、その内の一人は確実に発病するという意味だそうです。特に、女の子である長女は発病を免れることができないだろう、とまで言われてしまいました。「悲惨やなぁ。それにしても何故お互いによく調べないで結婚したんや。」と叱られましたが、私も義妹も、私が2児を出産後に発病したので、私たちにとっては不運だったというよりしかたがないのです。入院中は、看護婦さんや先生方から「子どもを産んだ後の発病で良かったですねぇ。」と言われて、「本当に不幸中の幸いだた。」と思っていましたが、こうなると全く逆です。
 その長女が、今年の3月21日から4日間ほど、朝起床時や昼寝から起きた時に膝や足裏が痛くて歩きにくいと言った時はショックでした。別にどこも打ち付けた覚えがないのに痛く、動くに連れて痛みが無くなるというのです。保育所では、長女は痩せ型で体重は増えずに身長ばかり伸びているので成長痛ではないかと言われましたが、私は“もしかしたら小児RAではないかしら?”と不安でたまりません。6月には40℃近く発熱し、この時は扁桃腺熱と言われ、一日で下がりましたが、他の子どもさんなら全く気にならないであろうこのような症状が、長女の場合はRAやSLEの初発症状ではないかと気にかかるのです。夏に向かい、保育所でもプール遊びが始まります。他の子どもたちと同じように、裸で直射日光を浴びてプール遊びをさせて良いものかと悩みはつきません。
 そこで、私の症状を一番よく知ってくださっている私の主治医に、長女も診ていただくことにしました。今までの状態を話し、血液検査もしていただきました。その結果、「今は大丈夫。膝の痛みも成長痛でしょう。プール遊びも普通にしていていいですよ。」と言われて、ほっとしました。
 私が今長女にしてやれることは、誘因を避けることぐらいしかありません。海水浴や野外プールなど強い日光を素肌に浴びるような遊びを避けること、衣食住の全般にわたって化学物質を取り込まないように注意すること、バランスのとれた正しい食生活をして風邪など引かないような強い体をつくること、そして最後に、“どうか発病しませんように!健やかな人生を歩むことができますように!”と祈ることしかできません。
 その気持の整理をつけてみても、長女の寝顔に涙する日が続きました。
                                        (続く)

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*長女は、この時以来、毎年一回、プールが始まる前に血液検査をし、私の主治医に診てもらっていました。長女は、血液検査で注射針を刺されるのをイヤがり、「お母さん、どうして私だけ痛い目に遭わなイカンのん?兄ちゃんはなぜ検査せんでもええのん?」と、よく尋ねたものでした。
 長女は今26歳ですが、幸いにも発病はしていません。危惧したような発病の危機はありましたが、異常に早めに気がついて手を打ち、発病は免れました。

 中学に入学した時、長女は長男と同じく、クラブに水泳部を選びました。長男が水泳部に入りたいと言った時も迷いましたが、長男はきっと大丈夫(膠原病、特にSLEは女性ホルモンが関係しているのか、患者の9割が女性)と思い、許可しました。長女の場合も最初から禁止するのはよくないと思い、許可しましたが、女性ホルモンの分泌が盛んになる年齢に直射日光を浴びる野外プール生活をしたことで、すぐに体調が悪化しました。血液検査では血小板が急激に減少していました。主治医が「膠原病の疑いあり。野外プールでの水泳を禁止・さらに体調が悪くなれば体育も見学。」と診断書を書いてくださいました。長女はクラブを剣道部に変わりました。高校時代は体調が悪くて保健室登校が多かったようですが、何とか卒業でき、大学ではサークルはソフトボール部に入り、社会人になった現在もソフトを続けています。

 彼女が発病を免れたのは、体調悪化に早めに気がついたこともありますが、彼女の生理が体調悪化後止まり、年に1回ぐらいしか無くなったことも幸いしたのではないかと思っています。SLE発病には女性ホルモンも関係すると言われますが、彼女の生理が止まったということは、発病の危機に際して、彼女の女性ホルモンの分泌が抑えられ、そのために発病を免れることができたのではないかと、推測しています。去年ぐらいから、生理はまた正常になったようです。だから、体調には十分、気をつけるように言っています。
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by dande550213 | 2010-12-22 10:14 | SLE・健康 | Comments(0)

過去に書いた文章から④1988年11月 SLE3年目(33歳)の時
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1988年11月『 私の闘病記―発病して3年―後編 6/9 』
           (全国膠原病友の会 関西ブロック 『明日への道 ブロック版 №56』)


<再度の悪化に息つく暇もない日々>
 翌昭和63年1月には3錠になり、主治医の許可も得て、1月31日、無事新居へ引越しました。引越しの時には田舎の父母に手伝いに来てもらい、私と子どもたちは主人の実家へ避難していました。
 新居は今まで住んでいた所から徒歩8分の所にあり、保育所と主人の実家がほんの少し遠くなったこと以外には生活圏に大きな変化はありませんでした。ただ一つ困ったことは、以前は外出さえしなければ一日中平面上で生活できたのに、新居は狭い敷地の2階建てで、一日に何回となく階段を昇り降りしなければならなくなったことです。階段にはあらかじめ手すりをつけてもらいましたが、夕方になるとこの手すりにすがりつかないと階段が昇れないほど、しんどくなるのです。
 こんな状態を不安に思ううちに、また指や頬に紅斑があらわれ、今度は親指の関節が痛くなるという症状が出始めました。尿蛋白も増え、補体価も下降し始めましたが、2月には2,5錠と減量されました。昨年秋の悪化と似た症状を示していることに一抹の不安を覚えながらも、プレドニンが減量になるという喜びがそれを抑えました。
 4月になると、長男が小学校に入学しました。人並みに入学式に出席できた喜びも束の間、PTAの学級委員に選出されてしまいました。保育所の委員も引き続きやってほしいと言われて、ほとほと困り果てました。私の病気のことを説明して、積極的に協力出来る状況ではないので辞退したいと申し出ましたが、「名前だけで結構です。」と言われて引き受けざるを得なくなりました。
 そんな中で補体の低下が続き、5月の診察では3錠に増量されましたが、この時、私は発病以来初めて、主治医の指示どおりに薬を飲みませんでした。補体が低下したといっても22から21.4にとわずかで、尿蛋白や抗DNA抗体などの値はこれまたわずかだけれど良くなっているし、長期低落傾向ももう頭打ちではないかと考えたのです。それに何と言っても、昨年秋の6錠からやっとの思いで2.5錠になったのに、たとえ半錠でも“また増える”という現実を認めたくなかったのです。
 このような素人判断は、すぐに私自身に大きなツケとなって回ってきました。顔面の痒かった部分があっと言う間に紅斑になって広がり、翌月の診察ではすべての検査結果が悪化していました。“しまった!ちゃんと3錠飲んでおけば良かった”と反省しましたが、後の祭りです。主治医は「おかしいなあ、3錠で効かなかったということかなぁ。」と首を捻られますが、「先生の指示通りに3錠飲みませんでした。」とはどうしても言えませんでした。
 私の場合、61年10月以降、常時白血球が少なくて、エンドキサンなどの免疫抑制剤は使えなくなっていました。しかたがないので、4錠飲んで補体が上昇するのを待つという方針に決まりました。それで、現在は4錠でひたすら我慢という状況です。
                                     (続く)
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by dande550213 | 2010-12-21 15:06 | SLE・健康 | Comments(2)