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ステロイド剤と2人3脚の全身性エリテマトーデス(SLE)患者の " 猪突猛進、横道うろうろ "人生備忘録:落ちこぼれクリスチャンが心を入れ替えて(- -;)学ぶ日々の「御言葉」と、スペイン語の勉強、SLEの病状などの日々のささやかな記録・・・というのが当初の自己紹介でしたが、今は、単に「日々生きて、夢中になった事ごとの記録」(((^^;)


by dande550213
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私は、誰でしょう?


久しぶり、石屋の犬ちゃん!
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お孫さんがいなくなった寂しさから、ご主人様、ようやく復活。

また、楽しませてあげるね~。
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by dande550213 | 2010-06-27 18:45 | 雑感 | Comments(4)

もうすぐ夏休み


学校オブジェ第3弾
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by dande550213 | 2010-06-24 15:21 | 雑感 | Comments(0)

「おしっこ約4回分をしっかり吸収して一晩中モレを防ぎます。」
「1枚で朝までモレ安心。」
「おしっこをすばやく吸収して表面はすぐにさらさらです。」
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という宣伝文句の「尿とりパッド」をネットで注文して、実家に配送手続きをした。届くのは、6月30日。

どんなものか、一緒に確認できるように、今日仕事の変更手続きを取ったので、6月30日~7月1日午前中にまた帰省するつもり。

父が夜起きずに、このパッドの中に排尿することで、母の夜中の介護が無くなればうれしいのだが、パッドを使うことで、父の排尿感覚が衰えるとしたら、今度は父は一日中オムツを付けなければならなくなるのではないか・・・と、案じてしまう。

「夜、何回も起きなくてもいいように・・・」という母の希望と、「ショートスティの回数が増えるのはイヤだ」という父の希望の両方を叶える最上の方法のハズなのだが、人間の営みは、それを机上の空論と嘲笑うだろうか・・・。
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by dande550213 | 2010-06-24 13:24 | 両親介護 | Comments(0)

母に支えられていた実家の介護のバランスが崩れつつある。

5月に父が転んで怪我をした。幸い、骨折はしなかったが、一晩入院して手の傷口を縫ったそうだ。しかし、これをきっかけに、父がまた夜一人で排尿できなくなり、母が一晩に4、5回の排尿のつど起こされるようになった。

もともと父はパーキンソン症候群と心筋梗塞を患っているので、今までに何回も夜の排尿が一人でできなくなっていたが、その都度、それなりにできるように回復していた。父の強い意志のおかげだが、今回のケガですっかり体力が落ち、傷口がなかなか治らないことで父も少し弱気になりかかっている。

暇を持て余した父の考えることは、自分の体調のことばかりで、前にも増して、些細なことでも病院通いに励むようになった。父も心配なのだろう・・・その気持はよくわかるが、「夜中を何回も起こされ、睡眠不足の状態で昼間は病院通いについて行き・・・」で、母の体力と気力が消耗して、私に「病院通いを止めて欲しい!」と連絡が入ったのが、先週半ば。

帰省の予定を1週間早めて、急遽、一昨日、礼拝を終えてから帰省した。

山陰線山家駅を降りて、上林行きのあやバスを待っている間に、雷が鳴り、どしゃ降りの雨が降り出した。バス停から屋根のある近所の軒下に避難したが、吹き込む雨にグッショリ濡れてしまった。

家の近くの停留所を降りると、杖をついた母が傘をさして私を待っていた。父が「傘を持って停留所まで迎えに行け」と言ってきかないのだそうだ。「この梅雨時に、傘を持たないで出かけける大人がどこにいるの!」と、父母に言っても無駄。いつまでたっても子供扱い。(^ー^;)

「足腰が弱って、座敷机のような大きなこたつが閉まえない」というので、早速、夏用に変えて、こたつ布団カバーや敷物を洗濯する。実家は、ドラム式の全自動洗濯機だが、母は大物の洗濯にそれをうまく使いこなせない。居間にはこれまた、うちの2倍以上もある新しい大きなテレビが鎮座していたが、父がデジタルとアナログの切り替えを上手く使いこなせず弱り果てている。齢をとると、新しい方式の新しい機械が使いこなせない。他人事ではない。明日は我が身だ。

母の布団を隣の部屋に移してやると、母は余程眠たかったのだろう・・・夜の7時前にはもう寝てしまった。
8時過ぎに父も寝るというので、母のベッドに代わりに寝る。11時半、2時半、4時半、5時半の4回、排尿に起きようと電気をつけるので、その世話をする。父はその後、すぐイビキをかいて眠るが、元々眠りの浅い私は一睡もできない。父の夜の世話の時はいつもそうだから、最初から眠ることは諦めている。一晩だけなら我慢もできるが、これが毎晩続くとなったら、もう体がもたないだろう。

父の体が不自由になり、母が介護を担うようになってからこの夏で3年目を迎えた。やはり・・・というか、当然母が一番大きな負担を強いられて、一気に年老いた。母も元々健康体ではない。糖尿病と高血圧を患っている。つい最近では膝が痛くなり、杖をつくようになった。訪問介護やショートステイを利用しているが、田舎ではいろいろと陰口をたたく人も居て、他人の評価が気になってアレコレ思い悩むタイプの母は、自分で全部世話をしていないことに後ろめたさを感じている。「介護の当事者ではない他人がどう言おうと、ほっておいたらいい」とアドバイスしても、齢をとった母が自分の性格を今更変えることはできないようで、田舎に帰る度に、いつも同じ愚痴を聞かされる。

しかし、今回はもうニッチもサッチも行かないところまで追い詰められたような気がする。

母は「しかたがないから、倒れるまで看る」というが、母が父の寿命より先に倒れてしまったら、すべてはご破算になるので、そんな事態に陥らないように何とか対策を打たなければならない。

母の夜の介護回数を減らすための対策は、3つ考えられる。
1.子どもが代わりに介護する回数を増やす。
2.父のショートステイの回数を増やす。
3.夜の排尿の世話をしなくてもよい方法にする。

私たちは3人兄弟だが、介護手伝いで帰省するのは私と弟の二人だけ。妹は子どももいないし、仕事もしていないのに、以前からなぜか帰らないし、介護には加わってくれない(^ー^;)。弟と私は、互いに月1回重複しないようにして帰省しているが、弟は恐らく増やすことはできないと思われるから、今後は私が月2回か、2ヶ月に3回に増やさなければならないだろう。ちなみに、弟のお嫁さんも一度も介護には加わってくれない。彼女も夫の実家にはほとんど来ない(^ー^;)

ショートステイの回数を、今の2回から4回に増やす場合の父の気持ちを聞いてみたら、他のことは我慢するが、ショートステイを今以上に増やすのは絶対イヤだと言う。なぜ、そんなにイヤなのかと聞くと、父にとってショートステイは、ゲッソリ痩せるほどシンドイ所なのだそうだ。

「じゃ、お父さん、後はお母さんが夜の排尿の世話をしなくてもよい方法、例えば、おむつをするとか、排尿パッドを当てるとかして、その中にする方法、そういう方法で週に1回はお母さんが起きなくてもよい方法を考えてみてくれる?」と聞くと、その方法を考えてみると、初めて了承してくれたので、このやり方の検討に入ることに決めた上で、帰阪した。

帰省する前は、父は内科へ診察に行くと言っていたのに、前日の夜になって眼科へも行くと言い出した。当日、病院で診察手続きをしていると、父は皮膚科へも行くと言い出し、結局3科も巡ることになった。

行く前からわかっていたことだが、どの科でもたいしたことはなくて、老人性の症状だから、付き合っていくよりしょうが無いとの診立て。これで父が納得してくれると良いのだが。
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by dande550213 | 2010-06-22 12:04 | 両親介護 | Comments(2)

2010/06/13: はさぶさ、地球に帰還
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2010/06/11: サッカー・ワールドカップ南アフリカ大会開催
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2010/06/11: ジャック・クストー生誕10周年 
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2010/06/11 : 背景画入り
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by dande550213 | 2010-06-14 09:32 | PC・IT | Comments(4)

一昨日、6/1に府大看護学部で教壇に立った発表に対する128名看護学生の感想文(原本)が送られてきました。落ち着いて読む時間が取れなくて、今日読んでみましたが、一日中、涙、涙、涙・・・。涙が溢れて止まりませんでした。"学生たちは、私の発表の真意を的確に理解し、共感してくれたのだ!"とわかり、うれしくてたまらないのです。私の人生で例えるならば、子どもが生まれた日と同じくらいの"最高のうれしさ・感激に満ちた日"となりました。

私は「闘病25年の心の軌跡 ―死に怯える心からの解放―」という題で、語りました。SLEの私の病歴ではなくて、揺れ動いた私の心の軌跡を"私の個人的な物語"として語りたいと思ったのでした。

当日配布したレジュメは、次のようなものでした。
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闘病25年の心の軌跡
―死に怯える心からの解放―
膠原病友の会 大阪支部 □□□□□(SLE)

1.私の病歴(SLE)
2.前回の「教壇に立っての感想」と「私の闘病記」から
3.「半うつ状態」になった原因
4.何をきっかけに再起したか
5.再起後の活力あふれる「生き急いだ日々」―懲りない猪突猛進―
6.私の死生観―死に対する恐怖―
  6-1.パスカルの場合
  6-2.私の場合
  6-3.大町公氏の場合
  6-4.岸本英夫氏の場合
  6-5.人間の死生観の2つのタイプ
7. 私の「半うつ状態」の奥に潜んでいたもの
8. 賭け
  8-1.パスカルの賭け
  8-2.私の賭け
  8-3.岸本英夫氏の賭け
9. 私のジクソーパズルの完成と心の平安
10. 最後に

読んだ本
・1987年頃 千葉敦子『「死への準備」日記』    朝日新聞社(1987)
・1994年頃 神谷美恵子 『生きがいについて』       みすず書房(1980)
・2006年  パスカル 『パンセ』前田陽一・由木康訳    中央公論新社(2001)
   〃   大町公 『私の「死への準備教育」』    法律文化社(1997)
   〃   岸本英夫 『死を見つめる心 ガンとたたかった十年』    講談社(1964)
・2008年  遠藤周作 『死について考える』     光文社(1996)
・2010年 キュプラー・ロス『死ぬ瞬間 死とその過程について』  中公文庫(2001)

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発表の順序と図表だけのレジュメを配布し、おまけに当日、時間が足らなくなり、8と9を飛ばして、いきなり10のまとめを早口でまくし立てたから、発表後に私は、"失敗した・・・私の思いは伝わらなかったかもしれない・・・"と、いたらない発表をしてしまったことを後悔する気持ちが湧いてきました。

招いてくださった先生の研究室に戻り、お茶を頂いている時に、同行してくださった友の会関西ブロックの重鎮とも言うべき元看護師さんが「私は□□さんとは違って、SLEの宣告を受けたとき、一旦死んだものとして、以後を生きてきた。」というような意味の感想をおっしゃった時に、「ああ、看護のプロであった元看護師さんですら私の真意を理解してくださることができないのだから、まして学生には意味のわからない話だったんだろうなあ・・・」と、こんなテーマで話をしたことを後悔したのでした。

実は、発表直前からこういうテーマを選んだことを後悔し始めていたのでした。同行の方に、聴いてくださる学生さんたちの学年を聞いたとき、「1回生です」と言われて、「しまった!」と思いました。私はすでにある程度、膠原病やSLEのことを学んだ学生さんに語るのだろうと思っていたからです。だから、聴く学生さんが膠原病やSLEについて、まだあまり学んでいないならば、病状と活動を中心としたテーマで語る、発表で言うなら、「再起後の活力溢れる日々」で終えるような語りにするつもりでした。いくら、「私の物語」だからといって、聴く人に理解出来ない可能性のあるような内容は語るべきではないと思っていたからです。だから、発表を待つ間、発表の主眼を変更すべきか、そのままでいくのか、混乱し、決まらないままに発表を始めてしまったのでした。

結果として、私の選んだテーマは、看護関係者用と教会用の2つのバージョンに分けるべきで、当日私は時間の制約もあって、無意識のうちに、看護関係者用のバージョンで語っていたのだということに後で気がつきました。

看護学生さんの感想文を読み始めた時、"この人たちは私の語った内容を理解してくれたのだ!"とわかって、うれしくてうれしくて涙が止まらなくなったのです。言葉足らずな私の真意を、本人以上に的確に表現し、共感してくださった学生さんもいます。"若いみずみずしい感性はスゴイ!"と感涙にむせんでいた時、電話がかかってきました。先日、同行してくださった元看護師の方からでした。

その方も、送られてきた看護学生さんの感想文のコピーを読んでいるところだそうです。"まだ全部読み終えていないけれど、看護学生さんの感想文を読んだ私の気持ちをすぐにあなたに伝えたくて電話した。"と、おっしゃってくださいました。"自分には感じ取ることができなかったあなたの真意をこの子たちは理解しているのだと感じた。”という内容の言葉を伝えてくださいました。その言葉に、ああ・・・私の発表は無駄ではなかったんだ、という思いがこみあげてきて、また涙、涙、涙です。

期せずして、私たちは同じ時間に同じ感想文を読んで、同じ思いをもったのです。"若いみずみずしい感性はスゴイ!"と。 こういう人たちが将来看護・介護の現場を担ってくださるのかと思うと、うれしくて頼もしくて救われたような気持ちになりました。

今回頂いた看護学生さんの感想文は、前回の発表の時の感想文とは比較にならないほどの重みを持って私に迫ってきました。"私の生きてきた意味がここにある"と思えるほどの、私の宝物となりました。
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by dande550213 | 2010-06-12 23:59 | SLE・健康 | Comments(2)

2010/06/10 : 背景画入り
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2010/06/05 :Dennis Gabor´s 110th birthday
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by dande550213 | 2010-06-10 14:18 | PC・IT | Comments(0)

過去に書いた文章から②1987年8月 SLE2年目(32歳)の時
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『不安を取り除いてくれた"手作りの療養の手引き"』
                                 (雑誌『クリニカルスタディ '87-8 』)

 全身性エリテマトーデス(SLE)の診断後、即入院、プレドニン60㎎を服用していたころ、私は病気の性質やステロイドの副作用を詳しく知らされないままに治療を受けていることが不安でたまりませんでした。治療内容について、患者が口をはさむことはできないけれど、"病気の再発と薬の副作用の予防"という観点から、患者が主体的にできることがあることを知り、それを実行することが治療の一助になると考えていました。医師や看護婦にそれを尋ねてみましたが、断片的な回答しか得られず、私は焦っていました。
 そんなとき、偶然、SLEの患者さんが緊急入院され、その方から20年にわたる辛い闘病生活の様子を聞いた私は、びどく動揺してしまいました。その方も、私がその方の姿に自分の予後を重ねて悲観し、闘病意欲を薄ないかけているのを敏感に感じ取られたのでしょう。ある日、「今、これを看護学生から実習の御礼にともらったけれど、私はこの病気に関してはベテランだから、あなたにあげる。」と、6枚のレポート用紙を手渡してくれました。
 見ると、"SLEを悪化させる因子とその因子に対する予防対策・ステロイド剤内服で考えられる副作用と予防のための注意点・ステロイド剤内服についての注意事項"が詳細に、かわいいイラスト入りで書かれていました。そして、「このことを注意していくと、SLEの症状はある程度まで落ち着かせることができます。自分自身でできるだけ注意していくようにしましょう。」と結ばれていました。
 一読して、「私が求めていた回答はこれだ。」と思いました。
 頂戴するのは申し訳ないので、コピーをとらせていただき、何回も読み返しました。読むうちに、私の予後の良し悪しの少なくとも半分は私の生活態度如何にかかっている、それならば、その部分は自分自身の力でしっかりとコントロールできるようにがんばろう、と決心しました。
 以後、私はこのコピーを療養の手引きとして、自分の生活をチェックし、常に初心に戻るように心がけています。                            
                   
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※この文章は、膠原病友の会の関西ブロックの「患者が教壇に立つ活動」で、1987年4月に教壇に立って語った内容をきっかけに、確か、菊池さんからテーマをいただいて書いた文章です。ほぼ同じ内容を後でまとめた闘病記にも収録しています。
 発病2年目の"私の不安、焦燥感、絶望感と、その後の必死のがんばり"が読み取れます。
 当時、私は不思議に感じていました。一緒に入院していた同病の友の多くが、私のように切実な"不安、焦燥感、絶望感"を感じていないように見えることを・・・。
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by dande550213 | 2010-06-09 22:37 | SLE・健康 | Comments(4)

過去に書いた文章から①1987年8月 SLE2年目(32歳)の時
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教壇に立って~自分のための人生をもう一度~』
      (全国膠原病友の会 関西ブロック『明日への道 ブロック版 №52』)


 昭和62年4月中旬、松林さんから闘病体験を発表してみないかと言われた時は、正直言って、"早過ぎる"と思いました。発病して1年8ヶ月足らずの新米患者で、闘病生活も始まったばかりです。劇的な事件(?)も幸いにしておこらず、とても看護学生さんたちにお話するような内容は無いと思いました。また、上旬より風邪気味で、咳と微熱が続き、薬も減量になったばかりの時でしたので、無理をしたくないという気持ちもありました。
 ところが、"大阪府立看護短大で発表"と聞いたとたんに、心が揺れ動きました。
 手塚山にある府立看護短大の校舎は、約10年前までは大阪女子大学が使っていて、私が4回生の時、大学は新校舎に移転したのです。ですから、私は3回生まで帝塚山の校舎で学びました。大学を卒業後も新校舎の方へは何回か足を運びましたが、旧校舎は別の大学に変わっているせいもあって、一度も訪れたことがありませんでした。
 そこで、こんな機会は二度とないと思い、後のこともよく考えないで引き受けてしまいました。
 発表までは2週間しかないので急がなければ、と思っているうちに、長男が風疹に罹って保育所を休んだり、長女も5月から保育所に通うことが決定して、その準備に何度も呼び出されたりと、大慌てでした。
 普段は安静第一にと、退屈を持て余しながら、無為に日々を送っている母親が、勇を鼓して何かにチャレンジを始めたとたんにこんなことになるなんて・・・と、カレンダーを睨みながら、子どもたちのことが少々恨めしくなってきます。
 病歴をまとめて、それに肉付けした原稿が出来上がったのは、前日の夜でした。
 4月27日、いよいよ当日です。午前中、下読みしましたが、悲しくつらい思いをした箇所になると、当時の感情が蘇ってきて、胸がつまり、涙が出てしまいます。涙声でリハーサルしている私を、子どもたちが怪訝そうな面持ちで見つめていました。
 昼過ぎに、義母に子どもたちを見に来てもらい、少し早めに出かけました。
 学生時代と同じく、天王寺から上町線に乗りました。10年ぶりのチンチン電車です。なつかしさと、再びこの電車に乗れるまでに回復したうれしさで、胸が一杯になりました。
 大学のそばの万代池まで歩いて来た時、突然、私は"ファイト!"と叫んで駆け出したくなりました。この道を、夏の暑い日も冬の寒い日も、スコートをはいてテニス部の練習で走りまわっていた青春の日々が、つい、きのうのことのように、鮮やかに蘇ってきたのです。二児を出産後、SLEになり、腎臓を患っている現実の私が、まるでうそのように感じられました。
 校門を入り、勝手知ったる校内を足の赴くままに歩き回りました。歩きまわるうちに、"きっと、あの頃のように元気な私にもどることができる!" そんな気がしてきました。
 4時半のチャイムとともに、教室に向かいました。最初、菊池さんが膠原病の種類や特徴経過を説明してくださいました。その後、私が発表したわけですが、冒頭から感極まって涙声になり、後は鼻水と咳の二重奏で、聴き苦しい発表だったと反省しています。60名近くの学生さんたちは、とても熱心に聴いてくださいました。私の言いたかったことを的確にとらえてくださったことが、後で感想文を読ませていただいて、よくわかりました。こんな素直な気持ちで聴いてくださったなんて、何だか、私の方が恥ずかしくなってきました。
 私は発病以来、幼い子どもたちのために何とか平穏に永らえたいと願い、ひたすら療養に努めてきました。最低限の家事と子どもの世話が私のでき得る限りの仕事で、私にはこんな生活しかないのだと諦めていました。期限を決めて何かの目標に向かって挑戦することができるとは、不思議なことに考えてもいませんでした。肉体的のみならず、精神的にもひどく臆病になっていたのです。ですから、この発表をやり遂げた時は、口では言い表せないような満足感で一杯でした。" 私にもできるのだ "という喜びと、病気だからと言って夢や希望まで捨てないで、もう一度、自分のための人生を生きるようにがんばってみよう、という想いがわき上がってきました。
 私にこのようなすばらしい機会を与えてくださった大阪府立看護短大の忠政先生・末原先生・学生の皆さん、そして、応援に来てくださった友の会の松林さん、菊池さんの御厚意に感謝します。ありがとうございました。
 最後に、私事で恐縮ですが、陰になり日向になり私の療養生活を支えてくださるお義母さんに感謝を捧げます。
      
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※ここでは、「劇的な事件(?)も幸いにしておこらず」と書いていますが、人生はわからないものですね、その後、「劇的な事件」が次々に起こり、否が応でも「病の床から叩き起される」ことになります。ここで、感謝を捧げているお義母さんも悲劇的な亡くなり方をしました。お義母さんの生き方を反面教師にして、その後の人生を歩んできたような気がします。
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by dande550213 | 2010-06-09 22:30 | SLE・健康 | Comments(0)

映画『シリアの花嫁』


教会の敬愛する先輩のブログ"忘却の誓い"に、3月に訪れられたイスラエル旅行の思い出が綴られている。イスラエルにはまだ行ったことがないので、興味しんしん、楽しく読んでいる。

5月24日の「イスラエル旅行―ゴラン高原」の記事の中で、「シリアの花嫁」という映画が紹介されていた。私も観てみたいと思って、上映館を調べてみたが、すでに上映終了だったので、レンタルDVDでこの映画を観た。

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この映画の公式サイトはコチラ。※ここに掲載した写真は、このサイトの写真を使わせていただきました。

主演女優のヒアム・アッバスの圧倒的な存在感がすばらしい。彼女は、イスラエルのナザレ生まれのアラブ系パレスチナ人だという。

描かれているのは、イスラエル占領下のゴラン高原のイスラム教ドゥルーズ派の一家族の結婚式の一日の物語。ここは、もともとはシリア領であったが、1967年の第三次中東戦争でイスラエルに占領されて、多くの住人たちは“無国籍者”となり、新たに引かれた“境界線”の向こう側にいる肉親との行き来さえも不可能になったという。「叫びの丘」と呼ばれる場所に拡声器を握って立ち、向こう側にいる肉親と、近況や無事を確認し合う光景は悲劇そのものであるが、私たち無関係な日本人の目には滑稽にもうつる。

" 海 "という天然の防壁に守られて他国の侵入を免れてきた日本という国に住む私たちには想像もつかない世界がここには描かれている。海一つ隔てた、お隣の朝鮮半島の古来からの国情を考えてみても、日本という国が稀有の国であることを感謝する。が、反面、世界の交流から取り残されてきたのではないだろうか。まさに、ガラパゴス現象の弊害が今日のグルーバル化で顕著になってきたような気がする。

家族は、イスラエル・シリア・ロシア・イタリアに別れて住み、家族の会話も数カ国語が飛び交う。

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ウズベキスタン・トルコ・エジプトなどの中近東を旅行したときもそのことを強く感じた。様々な民族が入り混じって住む光景が普通で、日常的に数カ国語が飛び交っているから、自国語以外の言語も話せるのが当たり前の世界。

それぞれが民族のアイデンティティを守りながら、互いに認め合って生きている。日本には無い世界。どちらが良いかではなく、こういった世界の存在することを知ることが国際理解の出発点だと思う。

ちなみに、先輩ご夫婦はこの映画を「みんぱくワールドシネマ」で観られたそうだ。次回の上映はクルド人を描いた、イラン映画の『わが故郷の歌』
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by dande550213 | 2010-06-05 11:02 | 映画・ドラマ | Comments(2)