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ステロイド剤と2人3脚の全身性エリテマトーデス(SLE)患者の " 猪突猛進、横道うろうろ "人生備忘録:落ちこぼれクリスチャンが心を入れ替えて(- -;)学ぶ日々の「御言葉」と、スペイン語の勉強、SLEの病状などの日々のささやかな記録・・・というのが当初の自己紹介でしたが、今は、単に「日々生きて、夢中になった事ごとの記録」(((^^;)


by dande550213

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「ヨルダンを越えて」の章は、列王記下2章1~14節からの説教である。

梅原牧師は、この1~14節を『天路歴程』を例にとって、「信仰の道行き」という観点から詳しく説き明かしてくださる。

主がエリヤを天に上げようとされた時に、エリヤとエリシャが辿った道行きの順序「ギルガル→ベテル→エリコ→ヨルダン」には、深い意味があると言われるのだ。

なぜギルガルなのか、なぜ次がベテルなのか・・・そして、ヨルダンを越えることにどういう意味があるのか、そんなことを今まで考えてみたこともなかったので、師の解き明かしに、ああ・・・ここにこんな深い意味が込められていたのか・・・とため息をついた。

「悩み、苦しみを背負って旅をしたが、イエス様の十字架を見上げた時に、重荷が落ちて転がった。これがギルガルです。」→神様がいらっしゃることがわかる (※ギルガルは「転ばす」という意味を持っている)

「ギルガルからベテルに行ったということは、何を意味しているのでしょう。クリスチャンの生涯、神を見るということ。」→神様との出会い(※ベテルという所は、ヤコブという人と神様のとの出会いの場所)

「彼らはエリコに行ったんです。エリコと言うのはこれは何を意味しているかと言いますと、ここの神学校、聖書学校があったんです。神様のことを教える、勉強する、そういう所です。・・・中略・・・神様が自分に何を望んでおられるのか、どうすればよいのか、幸いの本当の秘訣はどのような生活をすることによってそれが本当に自分のものになるのか。それを知りたければ、聖書を勉強することです。」→聖書の深い真理を学ぶ

「しかし、そこに止まっていてはいけません。ギルガルを越えて、あなたの人生に自分の我というものが生きていては通れぬ難所(ヨルダン)があることを知ってください。この預言者はヨルダンを越えて行ったんです。クリスチャンの生涯はヨルダンを越えなければいけません。・・・中略・・・(自分を捨てて)あなたに与えられる十字架を背負って、イエス様に従って行きましょう。これがヨルダンを越えていくということです。」→自我を捨てて、イエス様につき従う

この中で、師は何度も問いかけられる。

「神様に出会ったことがありますか?」「この経験が必要です」

「クリスチャンの方で、神様に出会ったという経験がないという人があったら残念です。どうぞ、それを求めてください。」

私は、神様に出会ったことがない・・・のだった。
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by dande550213 | 2006-04-30 17:20 | | Comments(0)

主聖句 119:127 それゆえ、金にまさり純金にまさって/わたしはあなたの戒めを愛します。
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つづり字アインで始まる節の段落。

ここでは、一番最初の言葉が次の節とどう繋がっていくのかが、新共同訳ではわかりにくかった。

時制の問題が絡んでいるように思う。

新共同訳では、次のように下線部が現在形になっている。

119:121 わたしは正しい裁きを行います/虐げる者にわたしをまかせないでください。

他の訳では、ここは過去形か現在完了形になっている。

・口語訳119:121 わたしは正しく義にかなったことを行いました。わたしを捨てて、しえたげる者に/ゆだねないでください。
・新改訳119:121 私は公正と義とを行ないました。私をしいたげる者どもに私をゆだねないでください。
・NKJ 119:121 I have done justice and righteousness;Do not leave me to my oppressors.
・TEV 119:121 I have done what is right and good; /don't abandon me to my enemies!

このように、なぜか新共同訳だけが他の訳とは違う時制で訳されていることは、実は他にもよくある。

これが三つの聖書を読み比べた時に感じる二つ目の疑問点。

なぜなら、時制によって、多少なりとも、意味(詩の作者の気持ち)が変わってくると思うから。
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by dande550213 | 2006-04-30 15:48 | 御言葉 | Comments(0)

梅原貞次郎先生は、私の教会の前任牧師先生。

この『ヨルダンを越えて』は、柏原教会の創立60周年記念行事の一環として編集・発行された説教集と、あとがきに書いてある。

梅原先生のことは、今の牧師先生の説教にもよく登場するが、残念ながら、私は一度もお会いしたことがない。

梅原先生の在任期間は、1952~1990年の38年間にわたるという。
私が柏原教会へ通い始めたのが、1995年。
その前に一度だけ、1991年に、湾岸戦争の募金に柏原教会へ行ったことがあったが、そのときは今の川原崎先生が出てこられたのをはっきり(笑)と覚えている。

川原崎先生や信徒の方々が、尊敬と親しみをこめて梅原先生の思いで話をされるたびに、どんな方だったんだろうと思っていた。

先週、尊敬する先輩のクリスチャンご夫婦のお宅をご訪問させていただいたときに、ひょんなことから、梅原先生の説教集『ヨルダンを越えて』を教えていただき、お借りした。

今日は、その中の、書名にもなっている「ヨルダンを越えて」の章を読んでみた。
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by dande550213 | 2006-04-29 23:54 | | Comments(0)

主聖句 119:113 心の分かれている者をわたしは憎みます。あなたの律法を愛します。
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「心の分かれている者」とは、

「純粋に神を信頼しようとしない不信仰者たち」(チェーン式バイブル)
「朝には神に向かって『アーメン!主よ。信じています、感謝します』と言い、信心深い様子をしていますが、夕べには、ガラッと人が変わったように、世俗の汚れたものを慕い、神への信仰も祈りもどこかへ行って、その心が定かでない者」(ベラカの聖書日課)

を指しているという。

「裏表がある」とか「熱しやすく醒めやすい」とかというのは違って、
「心底から信じていないから、いつもグラグラと揺れていて、神への畏れの無い者」。

私のような者のことだ。

どうしたら信仰が確立するのか・・・。

パスカルが『パンセ』で言っている。

 信仰に三つの手段がある。理性と習慣と霊感とである。ただひとり理性を持つキリスト教は、霊感なしに信じるものを、自分の真の子として受け入れない。これはしかし理性と習慣とを排除する意味ではなく、その反対である。だが、精神をその証拠に向って開き、習慣によってそこに確立し、しかも真の有益な結果をもたらしうる唯一のものである霊感に、へりくだることを通じて身を捧げなければならないのである。<キリストの十字架がむなしくならないために>(断章245)


霊感、聖霊によらなければ、信仰は人間的なものに留まっている。

人間的なものに留まっている信仰者=心の定まっていない者
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by dande550213 | 2006-04-29 11:43 | 御言葉 | Comments(0)

神戸市立博物館


ボストン美術館所蔵 肉筆浮世絵展の名前が「江戸の誘惑」だなんて、
この粋な命名は、もしかして田中優子氏だったりして・・・。(笑)

そんなワクワクする期待で、久しぶりに神戸市立博物館を訪れた。

「浮世絵」といっても、今まで、版画か肉筆かなんて、あまり気にも留めなかったが、
今回初めて肉筆の浮世絵を見て、改めて版画の浮世絵が立体感に乏しかったことを思った。

黒い墨で書いた線の輪郭は、伸びやかで、勢いがあって、
それが画面をキュッと引き締めている。
「ぼやけた感じがしない」と言ったらいいのか、シャープな印象を受ける。

近代の藤田嗣治画伯の絵にも、この黒い墨線の輪郭があったような気がする。
日本画の特徴なのか?・・・今のアニメもこういう描き方をしているのではないだろうか?

震災後、何回か神戸市立博物館に行っているが、
三ノ宮から海側に向ってのあの界隈は旧外国人居留地だったことを今日初めて知った。

それにしても、神戸市役所はまるでホテルのようにきらびやかで豪華なのに驚いた。
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by dande550213 | 2006-04-28 21:10 | 雑感 | Comments(0)

主聖句119:105 あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。
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今日はつづり字「ヌン」で始まる節。

新共同訳を一読して、109節に目が留まった。下線部の意味がわからないのだ。

119:109 わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。

「わたしの魂は常にわたしの手に置かれている」って、どういうことだろう?と思った。

他の訳では、
・口語訳119:109 わたしのいのちは常に危険にさらされています。しかし、わたしはあなたのおきてを忘れません。
・新改訳119:109 私は、いつもいのちがけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。
・NKJ119:109 My life is continually in my hand,Yet I do not forget Your law.
・TEV119:109 I am always ready to risk my life; /I have not forgotten your law.

となっているのを見て、「私の手」というのは、ここでは「頼りない・危険なもの」を意味しているのだろうということがようやくわかった。

自分なりに納得できないと先に進めない因果な性格。

フロモックス服用2週間が終って、気候もよくなり、ようやく少し遠出してみようかなという気持ちになった。今日はこれから、神戸市立博物館へ肉筆浮世絵展『江戸の誘惑』を見に行こうと思う。

いつもだいたい一人で出かけるのだが、昨夜、娘を誘ってみた。彼女もとても気になっている展覧会で行きたいが、卒論の中間発表の準備のため忙しくてとても無理と言う。

私のような我が儘人間は、一人だと誰に遠慮もいらなくて気が楽なのだが、今回は誰か誘ってみたい気がする。
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by dande550213 | 2006-04-28 10:26 | 御言葉 | Comments(0)

主聖句119:103 あなたの仰せを味わえば/わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。(新共同訳)
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教会で用いられている口語訳聖書が、新改訳聖書か新共同訳聖書のどちらかに変わるということを牧師先生からお聞きした時に、3つの訳で実際どういうところが違うのか、自分なりに知りたいと思った。

そのために、この「今日の御言葉」では、主聖句は敢えて「新共同訳聖書」から掲載している。

新改訳でなく、新共同訳を選んだのは別に他意はない。

新改訳はチェーン式バイブルで触れる機会があるが、新共同訳はふだん全く触れる機会がなかったから、新共同訳を選んでみただけのこと。(苦笑)

新共同訳聖書は、新約のみの聖書を、1999年に西大和キリスト教会献堂記念に所属教会からいただいたが、旧約はないので、旧約のときは、「J-ばいぶる1st2000」の新共同訳を見ている。

3つの聖書を見比べているので、肝心の御言葉を学ぶ前に、些細なことに気を取られてしまって、正直困っている。(苦笑)

でも、これも一巡すれば落ち着くかな・・・と思い、しばらくゴチャゴチャと、些細なことを感想として書いていきたい。(主よ、お許しください)


今日は以前から気になっている「み言葉」という表記の問題について。

昨日も触れたが、教団発行の「ベラカ」の聖書日課は口語訳聖書を使っているが、どうも口語訳聖書では「みことば」を「み言葉」と表記するようだ。
新改訳は「みことば」、新共同訳は「御言葉」と表記しているように思う。

私はかねがね、「み言葉」という表記の仕方は、日本語の「漢字仮名混じり文」の特性からすればおかしな表記だと思っていたので、「御言葉」を使っていた。

4/21のタイトル「主のみ言葉は私の慰めです」とか、4/26「永遠不滅のみ言葉に填る」のような<文章を読むとき>、私たちは無意識のうちに、漢字・仮名の表記を手がかりに、頭の中で、「単語」や「文節」に分けるという作業をしているし、また出来ることが日本語の漢字仮名混じり文の大きな特性だと思う。

4/21のタイトル文なら、「主/のみ/言葉/は/私/の/慰め/です」、
もしくは、「主の/み/言葉は/私の/慰め/です」、などのように視覚に飛び込んでしまうと思う。

「みことば」という言葉を、漢字の熟語をつかって表記する場合にどうして「み言葉」と書くのだろうと考えて見たとき、「み」に「御」という漢字を当てた場合、「御言葉」は「みことば」とも読めるし、「おことば」とも読めるからだと気がついた。

そうすると、今度は「おことば」と読まれたら、何か困ることがあるのかもしれないと思った。

調べてみると、「み」も「お」も接頭語だけれど、「み」の方がずぅ~と尊敬の度合いの格が上ということがわかった。
だから、「神様の言葉」は「おことば」ではダメで、「みことば」以外にはないのだ。

私は「み言葉」では一語として認識されにくいと思って、カテゴリでは最初から「御言葉」という表記を使っていたが、それは私が曲がりなりにもクリスチャンで、「御言葉」を「みことば」しかありえないと思っていたからで、もしかしたら教会とは無関係の人は「御言葉」を「おことば」と読まれていたのかもしれない・・・!と、今日初めて気づかされたのだった。

「御言葉」では、「みことば」と「おことば」の2つの読みがあるから、「みことば」とひらがな表記しすればいいかというと、これがまた難しい。

漢字仮名混じり文の中で、「みことば」を一語として瞬時に簡単に認識することができるかどうか・・・の問題があるからだ。

そんなやこんなを思うと、本当に翻訳はたいへんな作業なんだな・・・と改めて思う。
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by dande550213 | 2006-04-27 10:41 | 御言葉 | Comments(0)

119:92 あなたの律法を楽しみとしていなければ/この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。
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「今日の御言葉」のタイトルは、教団発行の『ベラカ』所収の「聖書日課」から掲載しているが、
今日はタイトルの「填る」を何と読んだらいいのか、またどういう意味なのか、わからずに困っている。

IME2002のIMEパッドからは、次の2文字が見つかったが、
・填・・・ テン、デン、は・める
・塡・・・ テン、ふさ・ぐ、うず・める
タイトルは「填る」となっているので、どちらも送り仮名が一致しない。

手持ちの漢和辞典「新字源」には、「填」は載っていない。

「塡」の漢字の読みは「テン、チン」だけ。
意味は「ふさぐ、うずめる、みちる、つきる、くるしい、ひさしい、しずめる、さだまる」など。

誤植なのか、それとも何か特別の意味で使っていらっしゃるのか?果ては、教会用語なのか?

いずれにせよ、意味がわからないのは辛い。
喉元に引っかかった小骨のようで、落ち着かない。
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by dande550213 | 2006-04-26 19:13 | 御言葉 | Comments(0)

主聖句 119:83 わたしは煙にすすけた革袋のようになっても/あなたの掟を決して忘れません。
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聖書の些細な表現の違いが気になる(興味を持ってしまう)私は、良き信徒ではないと自分ではわかっている。

しかし、今日もまた気になる。

主聖句は、口語訳ではこの詩の作者はもう「煙にすすけた皮袋」になってしまったが、
新共同訳と新改訳ではまだ「煙にすすけた皮袋」ではない。

口語訳119:83 わたしは煙の中の皮袋のようになりましたが、なお、あなたの定めを忘れませんでした。

「煙にすすけた皮袋」とは、使い古されて、もはや使用されなくなった、ぶどう酒などの保存容器は天井などにつるすので、煙やすすでますます汚くなる、つまり「年老いる」の意だそうだ。

だから、口語訳ではこの詩の作者は「年老いた人=老人」としているが、
新共同訳と新改訳ではそうではない。

なぜ、これが気になるのかといえば、
老人かそうでないかによって、詩全体の趣がどのように違ってくるのだろうかと思ったからだ。

主の救いと御言葉を、「煙の中の皮袋になるまで」長年祈りつつ待ち望んで、
今まさに絶え入らんばかりになっている作者の切実な気持ち・・・

「煙の中の皮袋のようになりましたが」の方が、私には強く迫ってくる。
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by dande550213 | 2006-04-25 10:32 | 御言葉 | Comments(0)

主聖句 119:77 御憐れみがわたしに届き/命を得させてくださいますように。あなたの律法はわたしの楽しみです。
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今日はとても恵まれた幸せな一日を送ることができた。

PCを間にアレやコレやと時を過ごし、
合間にお証しも聞かせていただいて、
美味しい昼食、おやつ、フルーツ、夕食を上げ膳据え膳でいただいて、
その上、美味しいシチューのお土産までいただいて、
本当に、まるで夢のような一日を過ごさせていただいた。

このような幸いな一日をお与えくださった主の恵みに心より感謝します。

ありがとうございます。心が本当にリフレッシュしました!

おやすみなさい。
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by dande550213 | 2006-04-24 23:09 | 御言葉 | Comments(0)