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ステロイド剤と2人3脚の全身性エリテマトーデス(SLE)患者の " 猪突猛進、横道うろうろ "人生備忘録:落ちこぼれクリスチャンが心を入れ替えて(- -;)学ぶ日々の「御言葉」と、スペイン語の勉強、SLEの病状などの日々のささやかな記録・・・というのが当初の自己紹介でしたが、今は、単に「日々生きて、夢中になった事ごとの記録」(((^^;)


by dande550213

カテゴリ:ユダヤ( 7 )



Vilna がどこかわからなかったが、リトアニア共和国の首都ヴィリニュスのようだ。旧市街は1994年に世界遺産に登録されている。

1931年当時のヴィリニュスの民族構成は以下のようだったという。
・ポーランド人 – 65.9%
・ユダヤ人(ポーランド語とイディッシュ語の両方を話す) – 28.0%
・ロシア人 – 3.8%
・ベラルーシ人 – 0.9%
・リトアニア人 – 0.8%
・ウクライナ人 – 0.1%

この動画は、1939年の、まだ平穏だったヴィリニュスのユダヤ人の生活がうかがえる映像。

Jewish Life in Vilna (1939)
*You tube Kresy-Siberiaさんより


YIVOユダヤ調査研究所センターがあり、東ヨーロッパのユダヤ教文化の一大中心地だったヴィリニュスにナチス・ドイツが侵攻して、ユダヤ人を二つのゲットーに押しこめ、当時リトアニアにいた約21万人のユダヤ人のうち、19万5千人から6千人を1941年6月から12月の短い期間に殺したという。

これだけ短期間のうちにユダヤ人狩りをして19万人以上を収容所送りにすることができたのは、リトアニア人の協力があったからだと言われている。

ナチスはリトアニア人の反ユダヤ主義を煽り立てるために、ナチス・ドイツに占領される前の年にリトアニアがソ連に併合されたのはユダヤ人のせい(共産主義とユダヤ人を結びつける)だと非難して、共産主義を嫌うリトアニア人をユダヤ人狩りに利用したと言われている。


トランプ氏の共和党指名受諾演説を聞いていると、ヒトラーの演説を思い出して、怖くなる。

移民やイスラム教徒を排斥する彼の「アメリカ第一主義」は、結局はWASP(White、 Anglo-Saxons、protestant)優越主義にも連なっていくのではないかと危惧する。
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by dande550213 | 2016-07-23 17:33 | ユダヤ | Comments(0)

私はユダヤ人を贔屓にしているわけではなくて、ただただ、ユダヤ人と彼らの歴史に興味がある。

「Jewish Documenntary -Full Film 」という動画は、The Destiny Foundation というおそらくユダヤ人団体が作った動画だ。だから、彼ら側に立った視点で編集されているかもしれない。

しかし、NHKの映像の世紀ではないけれども、当時の貴重な映像が収録されているので「歴史の証言」という点ですばらしい動画だと思う。
*You tube JewishHistoryDotOrgさんより




この動画は、恐らく元々は、You tubeに「Faith and destiny the miracle of IsraelPart 1 Rabbi Berel Wein」と「R.BBerel Wein,State of Israel Miracle|Part2」の2つに分割してアップされている映像を1つに編集したものではないかと思うので、元の映像も添付しておく。画像は悪いけれど、こちらの方が映像は豊富だ。
*You tube Juliett Levisさんより

*You tube
Kodesh LaHashemさんより


3つの動画ともに、英語字幕表示設定ができるので、わかりやすい。





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by dande550213 | 2016-07-16 20:57 | ユダヤ | Comments(0)

イスラエルの嘆きの壁で行われる「バル・ミツワー」

13歳になったユダヤ教徒の男児の成人式。13歳に達した後の安息日に、トーラー、ハフターラーの一部を朗読したり、朝の礼拝を執り行ったりと様々な作法をする記念の式。特にユダヤ法で決まっているわけではないので、宗派によって異なる。

Bar Mitzvah at the Western Wall in Israel*You Tube Ofir Mazorさんより

まさにパリサイ人の衣装。この動画のユダヤ教徒は超正統派だろうか?
そして彼らは「現在のイスラエルはユダヤ人の祖国ではない」と主張している人々だろうか?

ユダヤ教徒が現在のように子供が成人に達したことを祝う習慣は聖書の時代には存在せず、この儀式はキリスト教徒のなかで多くのユダヤ教徒が暮らすようになった中世以降に、キリスト教の堅信の影響を受けて発達したと考えられている。
*Wikiのバル・ミツワーより
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by dande550213 | 2016-06-27 22:27 | ユダヤ | Comments(0)

ちょうど20年前の1996年の今ごろ、1枚のチラシが教会の週報ボックスに入っていた。

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ユダヤ人の歴史、ユダヤ教について関心のある方はいらっしゃいませんか?

「ユダヤ人」という言葉を聞いたとき、貴方は先ずどの様な人を連想されるでしょう。シェークスピアの名作「ベニスの商人」に登場するシャイロック、あの強欲な高利貸しでしょうか。それともアンネの日記に記されたように、第二次大戦でナチスの手により虐殺された数百万人の人々でしょうか。或いは社会体制の変革を目指したマルクス。深層心理の世界を探ったフロイト。相対性理論で原子力解放の扉を開いたアインシュタインなど、世界の歴史に大きな足跡を残した人々でしょうか。

創造主は多くの民の中からアブラハムを選び、「地上のすべての民族は貴方によって祝福される。」と仰せられました。旧約聖書はユダヤ人たちに与えられ、預言者を通して「貴方は私の民となり、私は貴方の神となる。私の住まいは貴方たちと共にある。」と語っておられます。そして、イエスはユダヤ人としてお生まれになり、ユダヤ人の王と記されて十字架にかかられたのです。

新約聖書では祭司や律法学者、パリサイ人をイエスに敵対する者として激しく非難しています。彼たちはイエスをローマの提督ピラトに訴え、群衆たちも「十字架につけろ、その血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」と叫びました。

しかし、すべてのユダヤ人がイエスを拒んだ訳ではありません。12使徒は全員ユダヤ人であり、パウロも「私は八日目に割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニャミンの分かれの者です。きっすいのへブル人で、律法についてはパリサイ人、」と自己紹介しています。使徒たちはイエスが昇天された後も神殿で語り、パウロは各地のユダヤ人会堂を宣教の拠点としました。

この同じユダヤ人が、どうして或る者はイエスを神を冒涜する罪に定め、他のある者は救い主として受け入れたのでしょうか。「使徒の働き」では、ある時点からキリスト宣教に背を向ける人々を一括して「ヘロデとユダヤ人たち」と呼ぶと同時に、「イエスを受け入れたユダヤ人と異邦人」という表現も用いているのです。こうなるとユダヤ人とは民族名なのか、それともそれぞれ特定の信仰を持つ集団名なのか判らなくなってしまいます。

いずれにしても中世以降、ユダヤ人はキリスト教圏ではイエスを拒んだ罪により祖国を失った忌むべき民族とされ、イスラム圏では啓典の民ではあるが二流の民族と位置付けられて、ナチスは世界制覇を目論む劣悪な人種名としました。

この、神に選ばれ、聖書を与えられ、イエスを産み、敵対し、世界中に離散して尚信仰を保ち続け、再び祖国に帰った不思議な民族ユダヤ人。その信仰と歴史を辿るのも、より聖書に親しむ一つのアプローチではないでしょうか。

「ユダヤ人」に関心をお持ちの方はHまでご連絡ください。共に学び機会を持ちたいと願っています。
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その2年前に、見切り発車で、とりあえず洗礼を受けて、合わなければこの教会からドンズラしようと思っていた不埒者の私を神様がこの学びに導いてくださって、1996年の8月から、月1回の「へブル会」の学びが始まった。

H兄は毎月厳選された資料とレジュメを配って、まるで大学の講義のような学びを2年間続けてくださり、すい臓がんのため、1999年1月27日に天に帰ってしまわれた。

あの頃は、H兄の学識の高さにただただ圧倒され、憧れていただけだったような気がする。当時の資料やレジュメを最近紐解いて、学び直そうとしているのだが、今なら少しは理解できるようになった気がする。

そんな今だからこそ、もう一度H兄から学ぶことができたらどんなに幸せだろうかという想いでいっぱいになって、しばし資料をめくる手が止まる。

1997年2月のレジュメの上に切り取った新聞記事をファイリングしていた。
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白石かずこさんの「今月の詩」というコーナーで、イエフダ・アミハイの「ほとんど愛の歌」という詩。

ほとんど愛の歌
    イエフダ・アミハイ

もしも ぼくの両親やきみの両親が
1936年にイスラエルの地に
向かうことがなかったら
1944年に わたしたちは 出逢っていたと思う
あのアウシュビッツの駅で
ぼくは はたち
きみは 五才の女の児

「どこなの? マーメは
ターテは?」

「なんという名前なの?」
「アタシ ハンナレちゃん」

[注] 東ヨーロッパで迫害されていたユダヤ人社会で用いられていたイーディッシュ語で「マーメ」は「おかあさん」、「ターテ」は「おとうさん」、「ハンナレ」は「ハンナ」の子供同士の呼び名。



今立っている道は、あの頃から引かれていた道の途上だったのか・・・と思い至る。
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by dande550213 | 2016-06-27 21:33 | ユダヤ | Comments(0)

Jewish quarter in Warsaw in 1939 - original color footageは、1939年のポーランド、ワルシャワのユダヤ人街の映像。

ドイツ軍のポーランド侵攻が1939年9月だから、侵攻前のユダヤ人街の様子だろうか?
*追記:映像に「June in 1939」と表示されていたので、ナチス侵攻前のユダヤ人街の様子だとわかった。

*You tube Mironessiさんより

*追記2017/3/13:「Polish Jews 1938」




ナチス・ドイツは第二次世界大戦中に侵攻したポーランドに強制収容所とは目的が異なる6つの絶滅収容所を設立して、ヨーロッパのユダヤ人とロマ(当時はジプシーと呼ばれた)人を絶滅させようとした。

その6つの絶滅収容所とは(地図の髑髏マーク)
・アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
・ヘウムノ強制収容所
・ベウゼツ強制収容所
・ルブリン強制収容所
・ソビボル強制収容所
・トレブリンカ強制収容所

地図を見ると、アウシュビッツ強制収容所は、フランス、オランダ、オーストリアなどヨーロッパ各地から送られてきたユダヤ人の絶滅収容所だったことがわかる。

WW2-Holocaust-Europe.png
By I, Dennis Nilsson, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2941930



ホロコーストの犠牲者数はユダヤ人が510万人(うち子供が100-200万人)、ロマや共産主義者、社会主義者、同性愛者が合わせて50万人である。ホロコーストにより全ユダヤ人の3分の1、ヨーロッパのユダヤ人に限れば実に3分の2が殺戮された。ポーランド系ユダヤ人に至っては、その90%が殺害されている。各収容所で殺された人数は、おおむね次の通りに推定されている。
・アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所:約1,100,000
・トレブリンカ強制収容所:少なくとも700,000
・ベウゼツ強制収容所:約434,500
・ソビボル強制収容所:約167,000
・ヘウムノ強制収容所:約152,000
・ルブリン強制収容所(マイネダク): 78,000
・Maly Trostenets:少なくとも65,000
合計は250万人を超え、そのうち80%以上がユダヤ人である。したがって、これらの絶滅収容所で殺されたユダヤ人の数は、ポーランド国内におけるほぼすべてのユダヤ人を含めて、ナチスのホロコーストで殺されたユダヤ人全体の約半数を占める。

上記はWikiの「絶滅収容所」の項目から引用。

上の映像に映っているユダヤ人達もほとんど全員絶滅収容所に送られて、抹殺されてしまったのだ。

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by dande550213 | 2016-05-19 00:01 | ユダヤ | Comments(0)

アシュケナジ(アシュケナジム)とは、ディアスポラ(離散)のユダヤ人の内、主にドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々とその子孫を指す。アシュケナジはアシュケナジムの単数形。

語源は、創世記10章3節と歴代誌上1章6節に書かれている「ゴメルの子孫アシュケナズ」。

<創世記10章3節>
10:1 これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。

10:2 ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。

10:3 ゴメルの子孫はアシュケナズ、リファテ、トガルマ。

10:4 ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人。

10:5 これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。


<歴代誌上1章6節>
1:1 アダム、セツ、エノシュ、

1:2 ケナン、マハラルエル、エレデ、

1:3 エノク、メトシェラ、レメク、

1:4 ノア、セム、ハム、それにヤペテ。

1:5 ヤペテの子孫は、ゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。

1:6 ゴメルの子孫は、アシュケナズ、ディファテ、トガルマ。


もう一つの系統は「セファルディ」と言われ、主にスペイン・ポルトガル方面や地中海沿岸地域に定住した人々を指す。セファルディはセファルディムの単数形。これも、聖書由来の語。

<オバデヤ書20節>
1:20 イスラエルの子らで、この塁の捕囚の民はカナン人の国をツァレファテまで、セファラデにいるエルサレムの捕囚の民は南の町々を占領する。


セファルディの言語は、ラディーノ語(別名:ユダヤ・スペイン語、ジュデズモ語)であり、アシュケナジが話すイディッシュ語とは異なる。

様々なルートからヨーロッパに入って定住したユダヤ人は西欧では迫害を受けるようになり、1290年にはイングランドから、1394年にはフランスから、1492年にはスペインから、1497年にはポルトガルから追放される。

追放された彼らの多くはオランダや東欧(オーストリア、ボヘミヤ、モラビア、ポーランドなど)へ逃れていった。
Expulsions of Jews in Europe from 1100 to 1600.
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*By Expulsión_judíos.svg: Ecelanderivative work: ecelan (talk) - Expulsión_judíos.svg, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10844808



The Jews in Central Europe (1881)
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*By Richard Andree - Zur Volkskunde der Juden, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5950028


アウシュビッツ強制収容所がポーランドにあることは知っていたが、なぜポーランドにあれだけユダヤ人強制収容所が多かったのかについては考えたこともなかった。ポーランドは追放されたユダヤ人のヨーロッパでの最後の安住の地だったのだ。

ポーランド王国は1264年に「カリシュの法令」を出して、ユダヤ人の社会的権利を保護したと言われる。また、第二次世界戦でドイツに占領されるまで、ポーランドにはユダヤ人自治区「シュテットル」こそあれ、「ゲットー」というものがまったく存在していなかったという。13世紀の「カリシュの法令」以来、ヨーロッパのほかの国とは異なり、民族的に寛容な政策を国家・社会の根幹をなす伝統としていて、ユダヤ人はごく一部の大都市の旧市街を除いて、基本的にどこでも自由に住むことができ、その旧市街でさえも、ユダヤ人居住制限が近世にどんどん緩和されていった国だったと知って、恥ずかしい話だが驚いた。

5月上旬に訪れたプラハも基本的にはポーランドによく似ていたように感じた。

時の君主によって、保護されたり、追放されたりの変遷はあるが、西欧のような大規模の虐殺や激しい迫害は少なかったようだ。

いずれにせよ、彼らは後にアシュケナージと呼ばれ、同じディアスポラのユダヤ人でありながら、セファルディとは文化も言語も異なった。
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by dande550213 | 2016-05-17 14:05 | ユダヤ | Comments(0)

セファルディとは、ディアスポラ(離散)のユダヤ人の内、主にスペイン・ポルトガル方面や地中海沿岸地域に定住した人々を指す。

スペインがイスラムに国土の半分を支配されていた時代に、イスラム支配地にディアスポラ(離散)のユダヤ人が多く定着。その主な理由は、イスラム教はユダヤ教徒を迫害しなかったから。

彼らは中東から北アフリカを通って、イベリア半島に入り、アル・アンダルスで独自の文化を花開く。
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*地図は「スペインを追われたユダヤ人―マラーノの足跡を訪ねて」より借用。

スペインのセファルディの文化は、スペインの文化の範疇に入れられている。

レコンキスタで国土回復したカトリックのスペインでは、表向きはキリスト教に改宗したユダヤ人を「マラーノ(豚)」と呼んで、排斥し、虐殺し、追放する。

「ディアスポラ」と「難民」とは異なるが、現在のシリア難民の移動経路と移動のさまを見ていると、往時のディアスポラを想起させる。

You Tube sh4m69さんより
Música sefardí - Por que llorax blanca niña(15世紀)

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by dande550213 | 2015-10-04 17:37 | ユダヤ | Comments(0)