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ステロイド剤と2人3脚の全身性エリテマトーデス(SLE)患者の " 猪突猛進、横道うろうろ "人生備忘録:落ちこぼれクリスチャンが心を入れ替えて(- -;)学ぶ日々の「御言葉」と、スペイン語の勉強、SLEの病状などの日々のささやかな記録・・・というのが当初の自己紹介でしたが、今は、単に「日々生きて、夢中になった事ごとの記録」(((^^;)


by dande550213

カテゴリ:両親介護( 166 )


母に見せるために


何気なくスマホのアルバムの写真を見ていた。

この機種を買った2013年6月から撮った写真が全部入っている。

2014年2月の写真を見ていた。

ちょうど母が悪性リンパ腫とわかり、南丹病院に入院した頃だ。

その頃のアルバムにこんな写真が入っていた。
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あれ? これは父がまだ生きていた頃の写真だ。

写真の番号をみると、2011年7月頃の写真だとわかった。

そこで、このブログを2011年7月で検索してみると、あった。

「父、初めての帰宅」に同じ写真がある。

ああ、それで思い出した。

大阪の老人ホームに引き取って看ていた父が初めて帰宅した日の写真だった。

しかし、これは2011年の写真で、それがどうして2014年のアルバムに入っているのだろうかと、最初、不思議だった。

しばらく考えて、思い出した。

入院した母に亡き父との思い出の写真を見せてあげたいと思って、スマホに入れて持って行った写真だったことを。

もうすぐ、母が亡くなった4月22日。

母と会えなくなって3年目の春が巡ってきた。

まだ3年目だったの? 

何だか、もう10年ほど年月が過ぎ去ったような気がするのはどうしてだろう?


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by dande550213 | 2017-04-05 21:17 | 両親介護 | Comments(0)

3/11は、Foster child's birthday


あの3月11日は、私にとって、もう一つの記念日でもある。

それは、母の死を契機に支援している里子の誕生日でもあるからだ。

まだ、母の遺産は相続していない(苦笑)けれど、昨年7月から支援を始め、手紙のやり取りをしている

と言っても、勝手に里親と里子が手紙のやり取りはできない決まりで、国際飢餓対策機構を通して、やり取りする。

荷物をやり取りする船便か何かで、一緒に手紙を送ってくれるのだろうか?昨年末にクリスマスカードを送って、その返事が届いたのが2週間前だから、今後も、年に数回程度の手紙のやり取りになるだろう。

彼女は、3月11日で8歳になった。

あの震災の起こった日と彼女の誕生日が同じだと知った時、この里親志願はきっと神の導きだったに違いないと確信した。

彼女の先生になりたいという夢がかなうように、私なりの支援を続けたい。

彼女が大人になるまで支援を続けるために、神様はきっと私を生かし続けてくださるに違いないと信じて・・・。
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by dande550213 | 2015-03-13 09:04 | 両親介護 | Comments(0)

平穏死できた母


母を看送った後で、この本を読んだ。
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長尾和弘著『「平穏死」10の条件』(2012年 ブックマン社)

母の最期は「平穏死」だったのだと知った。

母がこのような最期の迎え方を知っていて望んだのか、知らなくて偶然そういう最期を迎えたのか、今となっては知るすべもないが、まさに母の最期は「平穏死」だった。

母は生前、自分の父の最期のような「ピンコロ」を望んでいた。

祖父は、80歳の時に、墓参りをした後、突然心筋梗塞に襲われてそのまま絶命した。長患いもせず、下の世話もしてもらわず、死の直前まで普通に過ごしていた。

そんな最期の迎え方を母は常々うらやましがっていたし、80歳になってからは、しきりに「80歳はおじいちゃん(父)が死んだ歳やから・・・」と、暗に自分もこの歳に死ぬかもしれないような意味ありげな話をよくしていた。そして、81歳の誕生日を迎える5日前に死んだ。

母は癌だったにも拘わらず、抗がん剤治療を止めて、ホスピスに移り、1週間後に、すべての薬、食事、水分を絶って、死を待った。祖父のような「ピンコロ」ではなかったけれど、3回ほど鎮静剤を使用しただけで、末期癌とは思えないような穏やかで自然な最期だった。

日に日に痩せこけていく母を見守るのはつらかったけれど、この本に書かれているように、脱水で身体が省エネモードになり、心臓にも負担がかからなかったのか、母の呼吸は最後まで楽だった。

母の身体は、すべてを絶ってから2週間近くも機能し続けた。痛みもなく、尿も便も毎日あり、死の前々日まで、母は身体を支えてもらって、ポータブルトイレで排便した。どこからそんなエネルギーを作り出すのか、本当に人間の身体は神秘的だと思った。


一方で、母は「在宅」をイヤがった。「病院に居たい、一番安心できる。」と言った。

普通は、住み慣れた故郷の自分の家で最期を迎えたいと思うだろうに、頑なに「在宅」を拒んだ。介護であろうと、看護であろうと、ホスピスであろうと・・・。だから、2月中旬に家を離れてから、一度も家には帰らなかった。家での一時外泊を勧めたが、帰りたくないと拒んだ。

なぜ、あれだけイヤがったのか、今でもよくわからない。

妹は、「そんなん当たり前やんか。<あの家>はお母さんが生まれ育った家ではなく、嫁いだ家やからや。」と言う。しかし、そういう妹も自分が生まれ育った<あの家>にそんなに帰りたいとは思わないそうで、そういう点では、母と妹は似ているかもしれない。

父の死後、<あの家>が母の重荷になっていたのかもしれない。

いずれにせよ、母が自分の意志で最期の迎え方を決め、それを貫き通し、結果として「平穏死」を迎えることができたのは、母にも私たちにも大きな幸せかもしれないと、この本を読んで感じた。
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by dande550213 | 2014-05-24 09:40 | 両親介護 | Comments(0)

5/18の「母の日フルートコンサート」で、ソン・ソルナムさんの演奏が終わったあとで、日本国際飢餓対策機構の方から「アフリカの飢餓をなくすために ハンガー・ゼロ・アフリカ」のお話があった。

ソン・ソルナムさんはクリスチャンで、国際飢餓対策機構(JIFH)の親善大使をされていて、今は家族で奈良(三郷)にお住まいだという。

国際飢餓対策機構は確か八尾市に本部があって、古くから柏原教会ともつながりがあり、私も10年近くある海外スタッフの方のサポーターをしている。

スタッフの方のプレゼンを聞きながら、突然、里親になることを示されたような気がした。

「母を亡くしたのを契機に、亡き母の代わりに、再び母になろう」と、なぜかその時、そう思ったのだ。

その場で、世界里親会のサポーターになることを申し出た。

係の方とやり取りがあって、私は、ルワンダの女の子の里親を希望し、今日、「里子きずなノート」が届いた。

アフリカの女の子を選んだのは、前にウガンダのワトトメンバーが数日ホームスティしたことがあったから。

あの時の私は英会話恐怖症で、彼女たちと会話らしい会話ができなくて、さびしい思いをさせてしまった。でも、今なら話すことに恐怖はないよ。辞書を引き引き、単語を並べるだけでも良いから、ドンドン話たいと願っているよ。

里子の女の子の自筆の英語あいさつと写真、絵が同封されていて、一気に親しみがわく。先生になりたいという彼女の夢がかなうように応援したい。


お母さん、
この子は、あなたから相続する予定の遺産で支援するつもりです。
だから、本当はあなたが支援してくださっているのですよ。
里子支援を通じて、あなたへの感謝を捧げます。
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by dande550213 | 2014-05-21 16:55 | 両親介護 | Comments(0)

4/16~5/19までの電気使用量のお知らせが届いた。

電気代は前月が4,189円なのに、今月は5,874円。元々暖房に電気は使わないので、この季節、どうしてこんなに電気代が増えてしまったのか、最初、なかなか思い当たらなかった。

いろいろ考えて、ようやく原因を思いついた。前月は、母の病室通いの毎日だったことを・・・。

朝早く家を出て、夜に帰宅する日々で、ほとんど日中は家にいなかったことを思い出した。母が死んでから日中在宅するようになった私が使う、昼間の電気代分だけが増えたんだ、と。

母が死んで、ちょうど1ヶ月か・・・。

不思議なことに悲しいとか喪失感とか、そういった気持ちに襲われることはあまりない。

死までがほんの3ヶ月の出来事だったので、今でも母が死んでしまった気がしないのだ。

夕方になれば、時々母に電話しそうになる。

ああ...もう母はいないんだと、止めた手の向こうに、母が待っているような気がすることがある。

母が死んだというより、突然、目の前から姿を消してしまって、何となく落ち着かないような感じという方がいいかもしれない。まだ母の死の実感がない。

今でも母がなぜあんなに早く死んでしまったのか、わからない。

手遅れだったのはわかっている。
でも、なぜ治療を中途で止めて、死を望んだのか、私にはまだ理解できない。

私だけでなく、私と価値観や性格が似ている伯母もわからないとこぼす。
たぶん、死んだ父もそう言うだろうと思う。(^-^;)

「80歳。もう十分生きたから、死んでも悔いはない。」と母は言った。
「せめて、平均寿命までは生きて欲しい」と言ったのに・・・。

「年寄りが長生きしたら、良いことはない。子どもたちに世話になって迷惑をかけるし・・・」と母は言った。
「まだ世話は始まったばかりやん。せめて1年ぐらいは世話をさせてえなあ」と言ったのに・・・。

「私の気持ちは、あんたもその歳になったらわかる。」と母は言った。

本当にわかるやろか?

でも、それやったら、お母さん、私がその歳になるまで生きられるように必ず見守ってね。
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by dande550213 | 2014-05-21 15:52 | 両親介護 | Comments(2)

母の三逮夜、日帰り帰省


母の三逮夜が夜の7時からある。

3時過ぎに家に着いて、家じゅうの戸を開け放す。

母は一人で待っていた。
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しばらくして、弟一家が母のお骨を抱えて帰ってきたので、私と夫は外回りを担当。

夫は母の畑の草引きと山蕗の収穫。

この山蕗は亡き父が山の奥から株を持ちかえり植えた山蕗だと夫が言う。どうして夫がそんなことを知っているのかと尋ねると、ずっと以前に父から直接その話を聞いたという。私も知らないことを夫が聞いて知っていたなんて、何だかうれしくなる。

私は庭の草引きを担当。その後、築山の杉の落ち葉を掃除したら、もう時間になり、慌てて家の中に飛び込んで着替える。

母の姉が、三逮夜が終わったらすぐにお供えのお菓子を分けて参会者に配ることを教えてくれた。(^-^;)

今までは母任せで、私たちは知らないことばかり。

次は七逮夜で四十九日。
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by dande550213 | 2014-05-10 22:59 | 両親介護 | Comments(0)

母の夜伽の時、母の姉や義姉が私に頼んだことをすっかり忘れていて、今日急きょ日帰りでそれをしに帰ることになった。

それとは...

母が入院時に着ていたパジャマとタオルを洗って、三逮夜まで物干しに干して置くこと。
パジャマは心臓が北向きになるように干して置くこと。

何でも、死んだ人は三逮夜が一番しんどいので、そこで一旦休み、汗をふくので、三逮夜までタオルを干して置かなければならないそうだ。(^-^;)

母を寝かせた布団や母が死亡時に着ていたパジャマや入院時の物などは、母の出棺の後、すぐに家から出して処分しなければならないと妹が言うので、もう無い。(^-^;)

適当な物で、母の姉や義姉が言うようにしておくことしかできない。

田舎はいろいろややこしいが、最後だから、母の身内の気の済むようにしてあげることが大事だと思っている。
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by dande550213 | 2014-04-29 10:44 | 両親介護 | Comments(0)

2014/04/22 : 母、永眠


04/22(火)
朝5時過ぎに母、息を引き取る。生前、「私は朝に死ぬと思う」と母は言っていたが、その通りになった。前日夕方、私は一旦家に帰るつもりだったが、病院発最終バスが出る直前になって、虫が知らせたというか、急きょ予定を変更して病院に泊まり込んだその翌日の朝に母は静かに息を引き取った。
9時半頃、母の遺体を載せた車に同乗して、母と一緒に田舎の家に帰る。
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母の姉や義姉などの母の親せき筋の女衆のおばさんたちとともに、夜伽をする。

04/23(水)
朝、畑から母の最後の人参を収穫する。田舎に生まれたのに、この歳になって初めての人参堀りとは恥ずかしい限り。母が言っていたヤマブキはまだ少し茎が細いので、GWに収穫しようと思う。
15:30に家を出て、通夜会場に向かう。母の希望通り、家族、親戚と株内の人たちだけ。私は前夜に夜伽をしたので、夜は夫と息子家族とともに家に帰り、初孫を交えて過ごす。

04/24(木)
朝6時半から村中を鐘をついて回る音とともに、株の本家ご夫婦がいらっしゃって、家で香典受付の帳場をたてられる。告別式場へ向われる株内と親せき筋の方々のバスのお見送りを済ませて、私たちも会場へ向かう。
10時半に告別式が始まる。家の宗旨は真言宗高野山派。
式が終わり、斎場へ向かう前に、突然、私は旧姓で名前を読み上げられて、母の遺影写真を持つ役目を仰せつかってビックリした。本来ならば、この役は喪主である弟のお嫁さんのはずなのに、どうして私が...と訳がわからず、戸惑うばかり。
後で弟に間違いではないかと尋ねたが、弟は「間違いではない。それで良いのだ」と言うので、詳しくは尋ねないようにした。
骨上げを済ませ、初七日も一緒に済ませて、夜帰阪した。

私が旧姓で呼ばれたのは、たぶん実家の葬儀で、嫁いだ娘である私を遺影写真を持つ役に加えるためではないかと思う。それが弟の意志なのか、あるいは母の遺言だったのかはわからないが、母の遺影写真を持つことができて、嬉しかった。
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by dande550213 | 2014-04-25 14:50 | 両親介護 | Comments(3)

緩和ケアの鎮静剤とは?


週末から弟が母を看てくれているので、今日は久しぶりに一日中在宅。

9時の第一礼拝に行ったら、今日はイースターで第一礼拝は8時半から大和川の河川敷であるのをすっかり忘れていた。第2礼拝に出席しようかな...とも思ったけれど、礼拝時はスマホの電源をOFFにしなければならないし、何となく落ち着けないような気がして、礼拝を欠席した。

家で掃除したり、久しぶりにブログを更新したり、買い物に出かけたりと普通の生活をしているが、心は落ち着かない。

昨日から、母は鎮静剤を使うほど、苦しさを訴えるようになっているからだ。

昨日、14時頃に急に母が苦しがって手を差し伸べてきたので、私はいよいよ母が死ぬのではないかと慌てた。弟が病院に到着するまでにまだ3時間ほどかかるし、近くに住む妹を呼んだ方が良いかと母に聞いたりした。

母の枕もとでイエス様に死を迎えようとしている母のための最期のお祈りもした。母も涙を浮かべていた。しかし、まだ最期ではなかった。

看護師さんにバイタルを調べてもらうが異常なし。これを間欠的に小1時間ほど繰り返した後で、看護師さんが鎮静剤を使うことを勧められた。

この薬は今回が初めてではなくて、1週間ほど前に妹が看ている夜間に1回使った薬だそうだ。これを使うと意識が少し朦朧として眠れるのだそうだ。

今回も母の同意を得て使っていただいたが、この薬はいったい何なのだろうか?
もしかしてモルヒネ?

この薬を使うと、母は安らかな眠りに落ちて、半日ほど平安な時を得ることができるようだ。

病院の裏手にある大阪聖ヨゼフ宣教修道女会の箕面修道院と祈りの家
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by dande550213 | 2014-04-20 18:29 | 両親介護 | Comments(2)

母は早く死のうとして、4月10日から食と水と薬(ステロイドと鎮痛剤)を絶った。
私たちの懇願にも耳を貸さず、頑固に自分の意思を押し通し続けた。

その結果、どうなったか!!!!

11日目の今日もまだ、母は死ねずにいる。

人間の「生き死に」は、人間が自由勝手に決めることはできない。
人間の「生き死に」は、神さまの御手の中にあることを思い知らされている。

一昨日の母。何も食べない、飲まないのに不思議なことに便も尿もまだ出る。
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おまけに、前の病院で抗がん剤治療1クールしてもどうしても縮小できなかった左鼠径部リンパ腫の拳大の癌のコブが消失してしまって、驚いている。食べないので、癌細胞が兵糧攻めにあって死滅してしまったのだろうか?訳がわからない不思議を次々に見せつけられて、私たち兄弟も右往左往する毎日。弟は宴会や会議や、いろんな予定をキャンセルして、毎週のように田舎に帰って、葬儀に備えて家の片づけなどをし、株の本家や株内の人に母の葬儀が近いことを伝えていたが...(^-^;)

食べないので、母の飢餓遺伝子のスイッチがONになって、身体が省エネモードで維持できるように変わってしまったのだろうと推測している。

今は身体の中に蓄えた脂肪を燃焼させてエネルギーに変え、身体中の全細胞から水分を絞り出して尿にして生命を維持しているのだろう。だから、母は日に日に痩せて、干からびていくように見えるが、まだ意識もあり、うなずきや手ぶりで自分の意思を伝えることができる。

性別と体重と基礎代謝量などから、専門家には残りの命の日数のおおまかな計算ができるのだろう。

先週、「今週はありません」とおっしゃった時は、まさか?と信じられなかったが、本当にそのとおりになってしまった。

付き添いが泊まり込める病室に替わり、毎日24時間を交代で母に付き添っている。桜の季節もいつしか終わり、新緑がまぶしい季節に移り変わろうとしている。
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by dande550213 | 2014-04-20 11:24 | 両親介護 | Comments(0)