私の教会では、礼拝時は「讃美歌」、祈祷会や例会、各種の集まりなどでは「聖歌」を歌うのが慣わしになっているような気がする。厳密に使い分けているのではないが、そんな使い分けがあるように思う。
受洗して間もないころ、讃美歌と聖歌がどうちがうのか、なぜ使い分けるのかがわからなかったが、教会生活を続けるには讃美歌と聖歌の歌集が必要だとわかり、しばらくたってから購入した。
すると、一年もたたないうちに、教会では今までの『讃美歌』ではなく、新しく刊行されたばかりの『讃美歌21』を使うことになり、今度はそれを購入しなければならなくなった。もちろん、購入するしないは個人の自由だが、教会備え付けの『讃美歌21』は数に限りがあるので、たいていの人は自分用に購入する。私も毎週礼拝時に使うものなので、購入した。
その後、しばらくして、何と、『聖歌』も、新しく刊行された『新聖歌』に変更になった。
私は、ほとんど使う間もなかったまっさらの旧の『讃美歌』と『聖歌』を見て、考えた。
そして、聖歌は新しいのには買い換えないでおこうと決めたのだった。
というのは、その頃は、礼拝以外の教会の集まりにはあまり積極的に参加しなかったので、いざとなったら、教会備え付けの『新聖歌』を借りて使用すればいいと考えたからだった。教区の集まりには、教会の『新聖歌』を借りて持って行ったり、行き先の教会で借りたりしていた。
そういう態度を取ったのは、一つには、買ったばかりの讃美歌や聖歌がすぐに教会では用を成さなくなったことを恨めしく思う気持ちがあったこと。また、教会で讃美歌や聖歌を歌う意味がよくわかっていなかったことがあったからだと思う。
同じく受洗後しばらくして、個人データとして、「愛唱讃美歌」や「愛唱聖句」の調査(アンケート)があったが、その時はたと困ったのを思い出す。
「愛唱聖句」の方は、受洗に導かれた御言葉ということで書くのに困らなかったが、「愛唱讃美歌」など無かったので、白紙で提出しようかと悩んだ。私は讃美歌も聖歌も、学校で音楽の時間に習う「うた」のように思ってしかたなく歌っていたに過ぎなかったから、歌詞を覚えてもいなかったし、ふだん歌うこともなかったからだ。
讃美歌や聖歌がきらいだったわけではない。歌詞が古臭く感じられたり、大仰だったりと、ひっかるところはあったが、歌うことは好きだった。
しかし、楽譜が読めないので、伴奏が無ければ、自分ひとりではメロディがつかめず、歌えなかったので、しいて教会以外でも歌いたいとは思わなかった。というより、本当は歌いたいんだけれども、教会以外では歌えないので、あきらめていたような気もする。
だから、愛唱讃美歌などなかったが、当時、私は正直に白紙で出さないで、何か取り繕って書いたような気がする。
『創立70周年記念誌』に、全教会員の愛唱聖句と愛唱讃美歌が収録されているので、それを見ると、私の愛唱讃美歌は「讃美歌21-266,522」になっている。(^-^;)
讃美歌21-266は「輝く日を仰ぐとき」、522は「キリストにはかえられません」
レーナ・マリアの歌が好きだったので、彼女が日本語で歌っていて、メロディ・歌詞とも覚えやすかった歌の中から、日本の讃美歌を探し出して書いたのだろう。
最近、ようやく「私も讃美したい」と思えるようになってきた。
讃美歌や聖歌の歌詞にも心が留まるようになってきた。
歌いたいときにメロディが思い出せるように、PCの音楽ソフトに楽譜を打ち込んで演奏させたりして工夫すると、少しずつ歌える讃美歌が増えてきて嬉しい。
今日、整理してみたら、55曲もあった!
曲の出だしのメロディさえわかれば、後はすぅ~と歌えるからだ。
無為に過ごしたと思っていた12年間は、無駄ではなかったのだ・・・と感謝する。
そして、つい先日、『新聖歌』をようやく購入した。『(^-^)
今週は、「いそぎ来たれ、主にある民」と「聞け、天使の歌」を毎日讃美しています。