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一歩一歩!振り返れば、人生はらせん階段 ippoippo51.exblog.jp

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ステロイド剤と2人3脚の全身性エリテマトーデス(SLE)患者の " 猪突猛進、横道うろうろ "人生備忘録:落ちこぼれクリスチャンが心を入れ替えて(- -;)学ぶ日々の「御言葉」と、スペイン語の勉強、SLEの病状などの日々のささやかな記録・・・というのが当初の自己紹介でしたが、今は、単に「日々生きて、夢中になった事ごとの記録」(((^^;)


by dande550213
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理性を超えるものが無限にあるということを認める


理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。(パスカル 『パンセ』断章267)

ヨハネ21:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

神を感じるのは、心情であって、理性ではない。信仰とはこのようなものである。理性にではなく、心情に感じられる神。(パスカル 『パンセ』断章278)

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1/8の不思議な出来事は、「私だけが見たのだ!」ということが、今日、教会で同行者に尋ねてわかった。

最初は、小人のような人に驚き、ヨハネ9章3節の御言葉を思い出したのだったが、何度もその時の光景を振り返ると、今度はもしかして、自分は非現実的な経験をしたのではないかと疑うようになってきて、自分が見た光景をどう理解していいのか、わからなくなっていた。

この疑問を解決するためには、同行者に「あなたもあの時見ましたよね?」と尋ねるのが一番だと思い、皆に順次尋ねたが、誰一人として、そのような人を見たという人はいなかったことがわかった(驚)。

そこで、考えられることは2つ。

1.私は本当は見なかったのに、見たと思い込んでいるのか?(→思い間違い?)
2.私は本当に見たけれど、他の4人には見えなかったのか?(→幻を見た?)

理性的に考えれば、1の可能性が高いかもしれないが、不思議なことに、私は彼の顔や姿、表情まではっきりと覚えているのだ。彼の様子を絵に描くこともできるほど・・・。そして、当夜、夢にまで見た。見なかったとしたら、このことをどう解釈していいか、わからない。

2は、他の同行者や周りの人々には見えない人を、私だけがまるで幻を見るかのように見たということになり、私の今までの常識、理性を超える。私はまるで寝言を言っている人間のようではないか!

私自身は、今まで、科学万能の時代に生きる人間として、理性を超えるような非科学的な・超自然的な現象には拒否反応を示す人間だった。自分万能主義というのではないが、「自分の目や耳で直接見たり聞いたりできないような話」はすぐには信じない性質だった。でも、その性格は聖書を読むようになると、実は大きな壁になった。

聖書は、現代人には超自然的・非科学的と思われるような創造神話や奇蹟が所収されているから、私はそれをそのまま素直に受け入れられないのだ。それでも洗礼を受けたのは、恥ずかしいことだが、私としては一種の見切り発車だった。(実は、自分の意思ではなく、後になって思うと、その時はそう導かれたのだった)

こういう私だから、10年たっても、毎年クリスマスやイースターになると悩んでいた。処女降誕?復活?本当かなあ?・・・と。それでも、教会から完全には脱落しなかったのは教会員の方々のとりなしの祈りと教会のご近所に住んでいることが大きかったのではないだろうか。また、ヘブル会という例会で、私の言いたい放題を受け入れ、導き続けてくださったことも感謝だ。

しかし、いつまでも霊的に貧しいままで、目の前に立ちはだかる大きな壁を自分の力では超えられなくて、最近焦りだしていた。切羽詰って、今年は年頭にか細い声で祈った。「私はトマスです。私もあなたの奇蹟をこの目で見ない限り信じられないのです。どうか私にも見せてください。」と、申し訳程度にボソボソと祈って、すっかり忘れてしまっていた。

そのことを思い出したとき、ヘブル会の創始者の故H兄の言葉を思い出した。

『いつか、「神さま、もう降参です!」と白旗を掲げる時が来ます。」と、私におっしゃったのだった。

今日が私のそのときでした。
Commented by カモミール at 2007-01-16 17:28 x
こういう風にも考えられると思うのですが…。
それは、dandeさんはその人を見たけれど、他の人はただ単に見過ごした、というケースです。
多くの人と同じものを同時に見ていても、
見る所が全く違うということを経験されたことがありませんか?
私の場合、私が見ているものを他の人は見ていなかった、ということはたまにですが、あります。またその逆もあります。
1月9日からのblogを読んでいて、最初はdandeさんがその男性(軟骨無形成症を患われていたのでは、と思いますが)を見てとても心を痛められたことが伝わってきましたが、その後は戸惑う流れとなりました。
「奇蹟」と、そのように結び付けていいものか、
話が飛躍し過ぎているようにも感じられました。強い違和感がありました。
うまく自分の気持ちを文章として表現できないので、歯がゆいのですが…。
私はその場にいませんでしたし、キリスト教徒でもないので、そう感じてしまったのかもしれません。
でも、何か凄くあやうい気がしたのです。
私の感想を書かせていただきましたが、気を悪くされたらごめんなさいね。
Commented by dande550213 at 2007-01-16 21:18
カモミールさん、感想を書いてくださって、ありがとう!うれしいです。
違和感を感じられて当然です。自分でもまだよく理解できずにいます。
軟骨無形成症、知らなくて、ネットで調べてみましたが、ちょっと違うような気がします。1m以下でしたし、手足が短いのではなく、すべてがミニサイズでした。私たち5人は彼を真正面から見ながら、彼の方に向かって歩き、彼の真横を通り抜けたのです。天王寺駅のコンコースだった(と思う)から、私以外の4人だけでなく、他にも多くの通行人がいたのに、皆彼が見えていないように見えたのが私には不思議だったのです。でも、絶対にそうだったとは断定はできません。
私は今まで、そういった類の話は頭から否定してきたので、危ういと思われる気持ち、よくわかります。だから、カモミールさんが敢えて書いてくださったことがとても嬉しいのです。
パスカルも私のような不思議な経験をしたようです。彼はその時の書付を服に縫いこんで、一生涯肌身離さず持ち歩いていたそうです。
そうだから、どうだというのではありませんが・・・。
Commented by カモミール at 2007-01-21 18:25 x
こんばんは、dandeさん。
その後、ネットで検索してみると、薬の副作用説や
精神の疲れ説が出てきました。
睡眠不足やストレスなど、いろんな要因が重なって神経が疲労困憊してくると、脳の情報処理がうまくいかなって幻覚を見る、という説です。
疲れていないと思われるかもしれませんが、dandeさんが思う以上に疲労していたのかもしれません。
薬は、ステロイドや他のお薬を等を大量に摂取しているわけではないので、除外出来るんじゃないかな…と思いました。
今回、(少しですが)検索してみて、結構多くの人(私が考えていた以上に)が、dandeさんと同じ体験をされているので、ちょっとびっくりしてしまいました。
 一定の条件化の下では、誰しもが体験しうることなのかもしれませんね。
by dande550213 | 2007-01-14 21:27 | 教会生活 | Comments(3)