最初、ポスターを見たときは「ヴォーカル・アンサンブル ラルテ・フィオレンテ」って、どこかの音大の声楽科関係の人のグループかしらと思っていた。時間が来て、舞台の上に並ばれたのは、一人を除いて、ごく普通の(そう思えた)の人々が普通の服を着て現れたのでビックリした。年齢も色々、服装もまちまち。ごく普通のお姉さん、おばちゃん、おっちゃんに見えた。畏まらなくてもいいような雰囲気で、ぐっと気が楽になった。
リーダーと思しき男性(彼だけは雰囲気が違ってみえたが、彼も普通のセーターを着ていた)がポケットから音叉を取り出して耳のそばでコーンと叩いて歌が始まった。
歌詞は、ラテン語なので意味は全然わからない。プログラムには対訳が載せられているから、それを目で追えば、だいたいの歌の意味はわかるようになっている。もちろん元曲もアレンジしたミサ曲も神を讃える歌だから、歌の意味に大きな違いはないともいえる。そういう意味では、ミサ曲などは歌の細かい意味などはたいして重要でないのかもしれないが、歌の意味がわからないから、聴いていても、私にはグループの素晴らしいハーモニーがただただ楽器(例えばバイオリン)旋律のように聴こえた。
専門家ではない一般大衆としてはそれで充分なのだろうか?という疑問が沸いてきた。
当時、この歌たちは、聴く人たちに歌詞がわかることを前提として演奏されたのだろうか、それともわからなくてもいいことを前提として演奏されたのだろうかと思った。つまりどういう人々を聴衆として想定した歌なのかと思った。「わからなくてもよい」という想定の下なら、私は当時の聴衆と同じ立場に立つから、歌の意味などに気を取られないで旋律を楽しんだらいいのだと思う。でも、わかることを想定して演奏されていたのなら、やっぱり私も「聴きながら歌の意味がわかる」という状況で聴きたいと思う。つまり当時の聴衆とできるだけ同じ状況で聴いて楽しみたいと思うのだ。勝手かもしれないが、言葉のハンディはできるだけ取り除いてほしいと願うのだ。
今回のミサ曲に限らず、日本で上演される外国の歌曲は原語で歌われるのが常だ。当然ながら、専門家でない一般大衆には歌われる歌詞の意味は全然わかならいことが多い。私は正直、歌詞の意味がわからない歌を長時間にわたって聴き続けるのは楽しくない。歌の楽しさが半減すると思っている。
人間が歌う歌は「楽器が奏でるメロディやリズムなど、歌詞の無い音楽」とは異なって、「歌の意味」が大きな要素になると思う。もちろん、楽器だけでも言葉と同じくらいの表現力があるが、やはり言葉の持つ力は別ものだと思う。
だから、外国の歌を原語で歌われると、歌詞の意味がわからないのが辛い。「畏まって拝聴しなければならない」ような気がしてくるのは私だけだろうか。
私は、基本的には「日本人が日本人聴衆を対象に外国の歌を歌う場合」には日本語に訳して歌ってほしいと願っている。歌の意味がわかれば、もっと深くその歌を理解し、味わい、楽しむことができると思うからだ。歌詞を日本語に訳して歌おうとすると、音楽に合わなくなってダメになるのだろうか?
今回のラテン語で書かれたミサ曲は、日本人が歌う外国のオペラや外国の曲とは別次元の問題があるかもしれないが、聴きながらふとそんなことを思った。
「ヴォーカル・アンサンブル ラルテ・フィオレンテ」の次の演奏会は、3/17(土)。
時間のゆるす限り、また聴きに行こうと思っている。
ルネサンス時代は、ラテン語が共通語の時もあったのと、元々は教会音楽から派生しているものなので、聴いているほうも、もちろん意味がわかったでしょうね。オペラの場合は、最初はメディチ家と言うイタリアの大商家の結婚式か何かの祝宴が最初でしたから、広く大衆に知られるのに、少し時間がかかっています。しかし、いずれにしても日本人に聴かせるためにかかれたものではありませんから、もちろん、聴衆も意味はわかりました。演奏する側から言えば、おっしゃるとおりに、訳すと、本来の言葉のニュアンスなどが、感じられなくなり、やはり辛いものはあります。そう言う意味では、演奏する側も本来の形を失いたくない。そこで、字幕を出したり、解説を書いたりと言うわけですね。レチターレも原語でやり、解説だけで観たいただきましたから、「言葉がわからなかった」と言うご指摘はいただきました。やはりお客様の声を考えることが大切ですね。