それを、本人の許可を得て、ここに書き留めておく。
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<信仰体験談>「救いは波のように」
F・T 氏(八幡小隊[教会]所属)
▼救いの始まり
1981年4月19日―私が西麻布の教会で洗礼を受けたイースターの日です。この日、私に、イエス・キリストによる救いの扉は開かれました。その後は、活発な教会青年会の交わりの中で伸び伸びと過ごし、やがて教会の執事(役員)に選ばれて、より積極的に教会活動に加わるようになりました。気のおけない仲間たちと企画を実行し、笑いの絶えない教会生活でした。家庭の食事に呼んだり呼ばれたり、順風満帆に思われる生活は、仕事の都合で九州に転居するまで続きます。
▼救世軍へ
九州では、福岡から北九州へと移り住む中で、所属するべき「教会捜し」をし、やがて救世軍へと導かれました。私と妻は、1994年9月14日、救世軍八幡小隊(教会にあたる)で兵士入隊式(正式に救世軍の信徒となることを表明する儀式)をおこなっていただきました。
救世軍では、このような儀式の時に、必ず救世軍の旗を掲げます。軍旗は、救世軍の信条・信仰を表しているのですが、赤は、神が私たちの罪の身代わりとしてこの世に送られたイエス・キリストの贖いの血、青は神のきよさ、黄は三位一体の神―聖霊の火と力を表しています。この三色の軍旗の下で宣誓をした日の晴れがましさは、今でも忘れられない記憶です。
ところが、事情により私は救世軍を離れ、長い旅路が始まることになります。その後は、他のキリスト教会で客員として礼拝を守り、信仰に火を守ったつもりでいました。しかし、勤務先を辞め、個人事業を開業した後で、否応なく、本当の自分の力と、姿を見せられることになりました。
▼打ちのめされる魂
事業所経営は、当初こそ軌道に乗せるのに手間取りましたが、ほどなく安定しました。しかし、大手の企業グループを相手先にして安心を得たことが、その後の苦境を招くことになります。大企業ならではの、決然とした事業再編の断行により、私はあっという間に頼りにしていた顧客の大半を失うことになるのです。
浸水する小船を必死で漕ぐ日々は、私の心も荒れさせました。預貯金を使い果たしてからは、支払いが迫るたびに喉はかれ、”渇き”というのは決して「たとえ」ではないことを知りました。
悲しいことに、経済的困窮は、心の内に教会に対する壁をもつくってしまいました。その一方で、他人より何よりも、間抜けな自分自身が信じられない生活の中で、唯一信じられたのは神様でした。支払いに窮するたびに、「神様、私にお金をください」と、真剣に祈りました。金額まであげてしつこく祈り、ようやく眠りにつくことができた日々のことを、今も思い出します。
やがて、危地は脱することができました。しかし私の心には、神様の形をした空洞が、空しく残されていたのです。
▼再び救世軍へ
実は、救世軍を離れてからも、歳末の社会鍋への献金は続けていました。顔を知られないように、よその街でおこなわれている社会鍋に献金を入れていました。
しかし、ある年の暮れ、それをしそびれたことから、日曜日の夕方に思い切って八幡小隊を訊ねました。小隊を離れてから十余年の月日が流れていました。
幸い小隊長(牧師にあたる)と引退した士官(伝道者)の方が親切に対応してくださいました。そして、その夜から不思議なことが起こり始めました。十余年ぶりに足を踏み入れた小隊会館にひっそりと佇んでいた三色の軍旗が、私の夢の中に出てくるようになったのです。〈私は、洗礼を受け、教会を捜した。しかし、そうではなかったのではないか。私こそ、救い上げてくださった神様に捜されていたのではないか。〉寝苦しさの中で、そのような思いが脳裏に去来しました。
その時、「わがため十字架にかかり主(イエス)をおもえばなみだはあめとぞふる」という、救世軍で歌っている歌詞が、まっすぐ私の心に飛び込んできたのです。次から次へと溢れてくる涙に耐えきれなくなり、私は起き上がって答えました。
「イエス様。私を軍旗のもとに戻してください。救世軍を通って天の御国へまいります。」
私は、次の日曜日から、懐かしい小隊の聖別会(礼拝)に出席し、復帰への道を踏み出しました。
▼救いの御手の中で
復帰した後、小隊のFさんという婦人が、十余年にわたり、毎日私と妻の名を挙げて祈っていてくれたことを知りました。Fさんは昨年百歳で天に召されましたが、神様は、その痛切な祈りを聞いて、私を捜し出されたのかもしれません。
神様の救いのご計画は、波のように私たちに寄せられます。人生という刺繍に織り出された黒い点は、たとえ、表面からは汚いしみのように見えたとしても、その裏地には、これを繋いで意味あらしめる神様の糸が縫いこまれているのだと思います。
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」(ローマの信徒への手紙11章36節)
身体をふりしぼり、一心に神様の御名を呼ぶ時、新しい救いの扉は開かれます。その時、捜し出された人々は、喜びの声を上げてこう叫ぶのです。
「信ずる者はみな、救われる!」
『ときのこえ』第2679号 2014年(平成26年)9月1日 発行 に掲載
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