悪性リンパ腫の疑いで血液内科のある病院へ転院したのだから、万が一の覚悟はしていたが、まさか、こんな宣告を受けるとは、今でも信じられない。夢か現実か、でもこれが人生なのだと思い知らされる。
昨日から、また母が滞在しているホテルへ行った。先週の木曜日に別れてから4日間で、母は手足の浮腫がいっそう進み、顔も浮腫んでいた。
母は、私がつくときはなぜかお風呂に入れて…と頼む。
先週は、久しぶりに髪を洗いたいと言うので、湯船に母をつけて、それからシャンプーをしてあげた。
その前、まだ母が田舎に居てるときも、母は私にお風呂に入りたい、と言った。
母に聞けば、どうも妹は自分自身があまりお風呂に入らないらしく、風邪を引かないようにと、母がお風呂に入るのを良しとはしないらしい。
1週間ぶりに母をお風呂に入れて、この1週間で母の浮腫が一層進んでいることがよくわかった。
だから、夕食後、息どおしい(息苦しい)と言い出したときに、もう泥を被る覚悟で一か八かの大芝居を売ってみようと思った。
明日がリンパ腫の生検の日だが、明日は生検だけして、結果を聞く3/4まで、母はこのまま入院できないのは確実だったから、もうこれ以上、待てない、と思った。
母に言った。
お母さん、あんまりしんどいんやったら、救急車で病院へ行ってみる?
母は病院へ行きたいと言った。
そこで、検査予定の病院へ電話して、母の症状を少しだけオーバーに言ったら、救急で来ても良いという許可をもらったので、夜7時半ごろに救急車で病院へ駆けつけた。母には、一層しんどいという演技をするようにと、よおく言い含めて。
しかし、私のような腹黒い悪人ではない正直者の母は、杖をついて救急車に乗り込もうとしたり、問いかけにもキチンと答えようとしたり…。お母さん、あかんやん。もっとしんどそうに演技しなければ…と、私はハラハラ。
救急車に乗り込んで、酸素吸入をされたとき、酸素濃度を増やしていかれたのを、何となく不思議だなあ…と、ぼんやり感じていた。
処置室で診ていただいているときも、お母さん、もっとしんどそうに演技して…とテレパシーを送っていた。
車椅子の母をレントゲン撮影に連れて行くように言われたとき、ようやく二人きりになれたので、母にこんこんと"演技"を言い聞かせ、「これでお母さん 一晩でも良いから 入院できたら、安心やろ?」とか言いながら、二人で暗い廊下をこっそりと笑い声をたてながら通ったのが、つい昨夜のことだった。
当直の先生は、心電図も胸のレントゲンも血液データも入院しなければならないほど悪くはないが、その浮腫では歩くのも辛いだろうし、明日は検査なので、今晩は入院してくださいと、温かい言葉をかけてくださった。血液データも、4日前とそんなにかわりません。ただ白血球が増えていますが…とおっしゃった。
私と母は、やっと入院できた喜びで一杯で、私はこの既成事実を手掛かりに、明日は主治医に入院を頼み込もうと意気込んでいた。
「おかあさん、大丈夫、明日はせめて検査の結果がわかる3/4まで入院させてくれるように 私、頑張って頼むから、心配しなくていいからね」、と言って別れたその翌日、主治医が病棟に来られて、4日前より急激に血液データが悪化していて、血液の中に癌細胞が流れている。週単位で病状が進んでいます。治療しないとしたら、3月前半までぐらいしか持たないだろう。治療しても5月6月までは生きられません、って、どういうこと。
昨夜、母は食欲が無かった。母は私にこう言った。
さゆりさん、おかしいなあ。どんな時でも食欲があるのが私やったのに 、今夜はお腹がペコペコやのに、食べられへん。何でやろ?
母は、前に私がうっかり悪性リンパ腫は血液の癌だと告げたとき、「へえー、この私が癌かもしれへんのん?」と驚いたが、もし仮に癌だとしても1、2年ぐらいは時間があるだろうと覚悟を決め、生きる望みがあるならキツイ治療にも耐えるようにがんばってみようと思っただろうに 、後3~4週間の命だなんて、あまりにも残酷すぎる。
母の待ち焦がれた入院。
母の居ないホテルにもどった。
目が腫れるから泣いたらアカンと思っても、昼間こらえていた涙が溢れる。母を病院から連れ帰って、また隣り合わせで眠りたい。