======================================================
教会で用いられている口語訳聖書が、新改訳聖書か新共同訳聖書のどちらかに変わるということを牧師先生からお聞きした時に、3つの訳で実際どういうところが違うのか、自分なりに知りたいと思った。
そのために、この「今日の御言葉」では、主聖句は敢えて「新共同訳聖書」から掲載している。
新改訳でなく、新共同訳を選んだのは別に他意はない。
新改訳はチェーン式バイブルで触れる機会があるが、新共同訳はふだん全く触れる機会がなかったから、新共同訳を選んでみただけのこと。(苦笑)
新共同訳聖書は、新約のみの聖書を、1999年に西大和キリスト教会献堂記念に所属教会からいただいたが、旧約はないので、旧約のときは、「J-ばいぶる1st2000」の新共同訳を見ている。
3つの聖書を見比べているので、肝心の御言葉を学ぶ前に、些細なことに気を取られてしまって、正直困っている。(苦笑)
でも、これも一巡すれば落ち着くかな・・・と思い、しばらくゴチャゴチャと、些細なことを感想として書いていきたい。(主よ、お許しください)
今日は以前から気になっている「み言葉」という表記の問題について。
昨日も触れたが、教団発行の「ベラカ」の聖書日課は口語訳聖書を使っているが、どうも口語訳聖書では「みことば」を「み言葉」と表記するようだ。
新改訳は「みことば」、新共同訳は「御言葉」と表記しているように思う。
私はかねがね、「み言葉」という表記の仕方は、日本語の「漢字仮名混じり文」の特性からすればおかしな表記だと思っていたので、「御言葉」を使っていた。
4/21のタイトル「主のみ言葉は私の慰めです」とか、4/26「永遠不滅のみ言葉に填る」のような<文章を読むとき>、私たちは無意識のうちに、漢字・仮名の表記を手がかりに、頭の中で、「単語」や「文節」に分けるという作業をしているし、また出来ることが日本語の漢字仮名混じり文の大きな特性だと思う。
4/21のタイトル文なら、「主/のみ/言葉/は/私/の/慰め/です」、
もしくは、「主の/み/言葉は/私の/慰め/です」、などのように視覚に飛び込んでしまうと思う。
「みことば」という言葉を、漢字の熟語をつかって表記する場合にどうして「み言葉」と書くのだろうと考えて見たとき、「み」に「御」という漢字を当てた場合、「御言葉」は「みことば」とも読めるし、「おことば」とも読めるからだと気がついた。
そうすると、今度は「おことば」と読まれたら、何か困ることがあるのかもしれないと思った。
調べてみると、「み」も「お」も接頭語だけれど、「み」の方がずぅ~と尊敬の度合いの格が上ということがわかった。
だから、「神様の言葉」は「おことば」ではダメで、「みことば」以外にはないのだ。
私は「み言葉」では一語として認識されにくいと思って、カテゴリでは最初から「御言葉」という表記を使っていたが、それは私が曲がりなりにもクリスチャンで、「御言葉」を「みことば」しかありえないと思っていたからで、もしかしたら教会とは無関係の人は「御言葉」を「おことば」と読まれていたのかもしれない・・・!と、今日初めて気づかされたのだった。
「御言葉」では、「みことば」と「おことば」の2つの読みがあるから、「みことば」とひらがな表記しすればいいかというと、これがまた難しい。
漢字仮名混じり文の中で、「みことば」を一語として瞬時に簡単に認識することができるかどうか・・・の問題があるからだ。
そんなやこんなを思うと、本当に翻訳はたいへんな作業なんだな・・・と改めて思う。