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今日は、イエス様の「渇く」というお言葉から、「十字架刑」について思いをめぐらせた。
マルコの福音書によれは、イエス様が十字架につけられたのは午前9時で息を引き取られたのは午後3時だ。6時間にわたって、想像を絶するような苦しみを受けてくださったのだ。
マルコ 15:25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
『ベラカ』聖書日課の手引きには、この「渇く」について、「主の身体からは6時間にわたって血がしたたっており、脱水状態になっておられたと思われます」と書いてある。
「十字架刑」の枕詞でもあるかのように、習慣的に私たちは「想像を絶するような苦しみ」という言葉で修飾するけれども、それが追体験されない限り、その苦しみがいかほどのものであったかは、実感としてはわからない。
だから、特に私について言えば、イエス様が自ら十字架にかかって、神への「贖いのいけにえ」になってくださったことの意味がよくわからず、そのことに対する感謝の気持ちも希薄なのではないかと思った。
そこで、十字架刑について、調べてみたいと思った。
ネットで調べたら、「空腹海岸:イエスはいかにして十字架上で死んだか http://www002.upp.so-net.ne.jp/harapeko/jesus/p1.html オザワカオル氏」という特別寄稿が掲載されていた。おそらく、受難週との関連だろう。
もちろん、ネット情報はすべてが正しいわけではないから、そのまま鵜呑みにしてはいけないと思っているが、それによると、歴史的には十字架刑は古代エジプト人、ペルシア人、フェニキア人の間で用いられ、マケドニア、ギリシア、ローマ帝国ではもっぱら奴隷や重罪人に対して数世紀もの間、広く採用された死刑方法だそうだ。だから、どちらかというと日本人には馴染みが薄い処刑法だ。
そして、架刑の解剖学的検証によれば、十字架刑での死因は、ふつう私たちが想像するような失血死でも餓死でもなく、「窒息死」であるという。
私たちが目にするイエス様の十字架刑の宗教画には、人体を解剖学的に検証した場合、一部誤りがあることも指摘されていた。
生きている人間の実際の身体に即した記述は、宗教画よりももっと残酷で、身震いと悪寒で、私には全部を読み通すことはできなかった。
近年公開された映画「パッション」。イエス・キリスト最後の12時間を忠実に描いたものだというが、私は怖くてこれを見れないでいる。
一体どれほどのことをイエス様が私たちのためにしてくださったのか、目を背けないで、見なければいけないのかもしれない。
マタイ 27:40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
という民衆のあざけりに対して、十字架から降りていくこともできたのに・・・。
そうすれば、神の子である証明にはなったかもしれないが、「贖いの供え物」にはならない。
神の前に私たちの罪を許してもらうためには、どうしてもイエス様が「贖いの供え物」になる必要があったから、どうしても十字架から降りることはできない。
昨日のマタイ34節「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」の叫びが、イエス様の肉体的苦痛を思うと、私には悲しい。