115:9 イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。
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主聖句は8~9節。
聖書ではくり返し「偶像崇拝」を戒めている。
偶像とは、「神や仏にかたどって作った、信仰するための像」と辞書には書いてある。
当時、他の地では、自分たちの信仰する神を像にかたどって祭り、それを(象徴として)拝んでいたのに対し、聖書では、像にかたどられるような神は人間の欲望から作られた神で真の神ではないとして、偶像を作ることを禁じ、偶像を崇拝することを禁じてきた。
その時に、「像を作って拝んでいるから=像に頼っている」と簡単にいうことができるのだろうか、その辺がいつもよくわからない。
どの宗教でも恐らく、その宗教で信じる神は目に見えない存在なのではないかと思う。目に見えるならば神にはならないだろう。
しかし、人間にとって「実体の無い、目に見えないもの、こと」を信じるということは心細く不安なものだから、どうしても目に見える「形」とともに、或いは置換えて信じる、ということが起こりがちになると思う。
だから、基本的には「形」は象徴であって、「本質」ではないと思う。
ただ、いつのまにか、象徴としての「形」が「本質」に変わってしまう危険性をはらんでいる。
だから、聖書ではくり返し、くり返し、「像を作ること・像を拝むこと」を禁じているのだと思う。
宗教の世界では、それぞれが「自分たちの信仰する神(神々)」の優越性・絶対性を主張するのは根幹に関わる問題だから当然だと思うが、像の有無が決定的な要素ではないような気がする。
「像を作っているから、像を拝んでいるから」という理由で、「真の神ではない」というなら、カトリックはどうなるのだろうと疑問を感じる私がおかしいのか、いつもここで悩んでしまう。