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2010年12月『 私の闘病記―闘病25年の心の軌跡~死(無)に怯える心からの解放~16/30 』
(全国膠原病友の会 関西ブロック 『明日への道 ブロック版 №122』)
はじめに
1.「抑うつ状態」の39歳までの私
2.何をきっかけに再起したか
3.再起後の猪突猛進「生き急いだ40代」
4.洗礼を受ける
5.死に対する恐怖
(1)パスカルの場合
(2)私の場合
(3)大町公氏の場合
(4)岸本英夫氏の場合
6. 人間の死生観の2つのタイプ
7.「抑うつ状態」の奥に潜んでいたもの
8. 賭け
(1)パスカルの賭け
(2)私の賭け
(3)岸本英夫氏の賭け
9.私のジクソーパズルの完成と心の平安
10. 最後に
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6. 人間の死生観の2つのタイプ1/3
「死生観」というのは、簡単にいえば「死を通した生の見方」のことで「人が死んだらどうなるか?どこへ行くのか?生きることとは何か?人は何のために生きるのか?」などについてのその人なりの理解のしかた・意識です。
前述の岸本英夫氏は「人間はその死生観から大きく2つのタイプに分けられる」と言います。
死の問題という視覚から、現代人を眺めてみると、死に対する態度が、人によって異なる。大きくは二つの類型にわけて考えられる。その一つは、死を忘れて生活する人間類型に属する人々である。現代社会では、大多数はこの類型に属する。他の一つは、死に脅えて生きている人々の人間類型である。これは、前者に比べるとはるかに少数ではある。しかし、それは、前者に対立する、現代人の生死観を考える場合には、見落としてはならない重要なものである。この類型に属する人々は、数は少ないかもしれないけれど、その人生観は深刻である。暗い、淋しい気持ちで、自分に迫って来る死というものを見つめている。脅えている。死を忘れて生活している人々も、実はいつ、この類型に陥ることになるかもしれないのである。
また、氏によれば、ウィリアム・ジェイムズ(哲学者・心理学者)はもう少し広い観点、形而上学的傾向(世界の根本的な成り立ちの理由や物や人間の存在の理由や意味など、見たり確かめたりできないものについて考える傾向)の面から人間は「すこやかな心」と「病める魂」の2つのタイプに分けられると言います。
「病める魂」のもち主は、現在の与えられた人生には、どうしても満足をみいだすことはできない。この人生に対して、深い疑問を持ち、人間はなんのために生まれてきたかを、つねに心の問題とする。ジェイムズはこのような「病める魂」を「二度生まれ型(twice born)」ともよんでいる。次の世に、もう一度生まれなければ承知しないという意味である。(中略)これに反して、「すこやかな心」にとっては、現在の、時々刻々の生活が、生きがいにみちている。その日その日がたのしい。生きているということ自身が、直接的な価値をもっている。人生に対する、心をえぐるような深刻な疑問は出てこない。生きていられるということだけで、感謝に価する。この人生に、じゅうぶん満足しているので、死後の世界のことなどには興味がなく、「一度生まれ型」(once born)ともいえる。
2つのタイプとは、
「死を忘れて生活する人間」
≒「すこやかな心」
「死に脅えて生きている人間」
≒「病める魂」
という関係になるでしょうか。もしかすると従来からよく言われる楽観的タイプと悲観的タイプというような分け方と同じなのかもしれませんね。
後者は死んだら無になると考え、自分が無になることに恐怖を覚えるが故にどうしても死にたくないと願い、無になると考えるが故に無になる人生に意味があるのかと、生ある間、問い続け、その答えが得られないならば、もう一度生まれてまでもその答えを知りたいと求めるタイプといえると思います。私はまさしく後者に属するタイプの人間だったのです。
(続く)